生活と言葉

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織り物をするお祖母さんの傍らで眠る赤ちゃん。(ちょっと暗いけど、手前のハンモックの中に寝てます。)
colombia cauca tumbichucue




トゥンビチュクエ(tumbichucue)はティエラデントロと呼ばれる、ナサ民族の暮らす地域でも古くからの生活が色濃く残る地域にある人口800人ほどの小さな村。
大人も小さな子供も、ほぼすべての人たちがナサ語(ナサユウェ)を日常的に話し、スペイン語とともに相手によって使い分ける。子供たちにとって、まず初めに覚えるのがナサ語で後にスペイン語という順番。

しかし、このような地域がある一方、言葉を失っていっている、もしくは完全に失ってしまった地域もある。かなり以前に失った地域もあるようだが、僕の印象ではここ3、4世代で急速に変わりつつあるように思う。あくまで、僕が歩いた地域についてのことで、必ずしもそうではないのかもしれないけれど。
僕の年(29歳)を基準に見ると、お祖父さんの世代では相当な人たちが民族の言語で日常を送っていた。スペイン語を話さない人もいた。親の世代ではスペイン語を話さない人は少なく、2言語を使い分ける。しかし、僕達の世代から下となると母語がスペイン語の人たちが大多数のように感じる。また民族の言葉を知らない人たちも多数いる。

これはここ数十年で生活、生活圏が急速に変わっていったからだろう。民族の間で使われる限られた世界の言葉が、スペイン語というより広い世界で使われる言葉にとって変わられるのは、生活の広がりの中では必然的なことだと思う。
しかし、言葉が失われるということは、同時にどれだけのものを失っていくことになるのだろう。もしくは、どれだけの事を失った結果として言葉が失われていくのか。危機間を持っている人は、当事者の中にもいる。残そうと活動している人もいるし、復活させようとしている人もいる。しかし、一度必要性のなくなってしまった言語を、だれが日常の中でわざわざ使うのだろうか。かと言ってそれを見ているだけで良いのだろうか。言葉の中に含まれる、心、匂い、生活。その言葉でしか言い現すことのできないその土地のことが失われていく。

おそらく今が、ぎりぎりなのかも知れない。生活の変化はどんどん加速していくだろう。新しい生活を求めることが悪いのではない。僕はその新しい生活を初めから手にし、そこで育った人間だ。その自分が、便利さを求めることを否定できるはずがない。ただ、その便利さを手にしていない人たちの中に、今ある昔からの生活、伝統を残し伝えていかなければならないと考える人がいる、それも若い世代にいると言うことは、とても尊敬すべきことだと思う。外の人間である自分は一体何ができ、何をすべきなのか。
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