「故郷を求めて あるコロンビア難民の死」 (SONRISA vol.135 掲載)

グアテマラを中心に、中年米へ支援活動をする「日本ラテンアメリカ協力ネットワーク」が発行する「SONRISA」に、昨年12月に訪ねた、エクアドル、コロンビアに暮らす難民・避難民となったコロンビア人の友人たちの記事を寄稿しました。

許可を得て、ブログに転載させていただきました。


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故郷を求めて -あるコロンビア難民の死



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ルイス・フェリペ・タピアさん。この一ヶ月後、彼は突然仲間の元を去った。2011年7月エクアドル・リタ市



 コロンビア南西部のナリーニョ県に、深い山々に囲まれたアルタケルという町がある。熱帯の木々が山肌を覆う。町の墓地に1人の友人が眠っている。46歳で最期を迎えたルイス・フェリペ・タピアさん。9年間、エクアドルで難民として暮らしてきたコロンビア人だ。
 コロンビアでは40年以上内戦が続いている。近年では麻薬を資金源とする左翼ゲリラと右派民兵組織、政府軍の間に農村が巻き込まれ、300万人以上の国内避難民、50万ともいわれる難民を出している。ナリーニョは現在、もっとも暴力の激しい地域のひとつであり、エクアドルへ難民化する人々が後を絶たない。

 昨年12月中旬、私は彼の母親ラウラさん、兄のヒルベルトさんに案内され、アルタケルの墓地へと向かった。灰色の雲が空を覆う、肌寒い午後だった。前夜の雨にぬかるむ道を、2人の後ろについて歩く。
 入り口の古い門をくぐり、奥へと進む。やがて彼の名が刻まれた墓碑の前で立ち止まった。棺が納められたコンクリート製の墓はレンガによって封がされていた。1人ずつノックする。「オーラ(やあ)」。そう声掛けるように。周囲の雑草を丁寧にむしる、年老いた母親の横顔を見つめていた。摘んできた花と、彼が好きだったコロンビアのビール「ポケル」を添えた。ルイスさん、コロンビアに帰ってきたんだね。

 9月初め、彼の息子で同名のルイスから日本にいた私にメールが届いた。
「ダイスケ、元気でやってるか?こっちはよくない事が起きたんだ。父が殺されてしまった。皆悲しんでいる」
 文面はあまりに短く、その内容に戸惑った。私は何度も読み返した。もし事件だったらと思い、ネットでエクアドルのニュースを検索した。現地の新聞に、彼の死を知らせる記事が載っていた。8月21日、彼が暮らしていたエクアドル北部の町リタで、祭りの最中、何者かによって銃で撃たれて亡くなった。犯人は捕まっておらず、原因は分かっていないとある。
 本当に死んでしまったんだ。その事実に実感が伴わない。すぐに悲しみは湧かなかった。

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ルイスさんの墓を参る兄のヒルベルトさん。2011年12月コロンビア・ナリーニョ県




 出会い 2007

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コロンビアに暮らすルイスさんの家族。彼らも故郷を追われ避難民として厳しい生活を送る。(左から・父親フベナルさん・母親ラウラさん・兄ヒルベルトさん)2011年12月コロンビア・ナリーニョ県


 ルイスさんは、リタとその周辺に暮らす難民グループのリーダーだった。リタはコロンビア国境に近い山間の小さな町だ。ここに彼と同郷から移り住んだ難民が暮らしている。多くが先住民族アワの人たちだ。彼自身はパスト民族だが、アワ民族のコミュニティーで生まれ育った。共通する土地の記憶が彼らを結び付けていた。
 私は2007年12月、現地で活動する教会組織の紹介で初めてルイスさんと出会った。以来、彼らの生活を知りたくて毎年訪ねていた。彼は当時、リタから車で5時間余りの首都近郊の町に家族と暮らし、仕事の合間にリタへ通っていた。

 彼と私は不思議と気があった。もしかすると私が一方的に感じていただけかもしれないが、人間味が溢れる彼が好きだった。彼を通じて沢山の人たちと知り合った。1人ひとりが個性的で、真剣に生きながらもどこか温かい可笑しさを持っていた。何度でも会いたくなる人たちだ。
 角刈りで真っ赤なシャツを着たルイスさんは、小柄だが、がっちりした体格をしていた。握手の途中でギュッと力を込めるのが印象に残っている。話を聞きたいという私に快く応じてくれた。
 故郷を離れた人々は、全てを手放しここに来た。長い人で10年近く経つ。その多くが日雇い仕事に従事し、未だ生活基盤を築けずにいた。
 ルイスさんが夢を語った。
「自分たちの組織を作りたいんだ。そこで収益を得て、各家庭に分配する。ゆくゆくは大きな土地を買い、コロンビアで暮らしていた時のようにコミュニティーを作りたい-」

 

 再訪 2009

 2009年に訪ねると、彼は家族と離れリタに越してきていた。1人で暮らす寂しさを口にしたが、仲間の近くで暮らしながら活動に力を入れようとしていた。
 10日間、彼の家に泊まりながら、家々を訪ね歩いた。
 家具職人である彼が自分で建てた家は、3畳ほどの小屋に、手製のベッドと本棚が置かれていた。板を張り合わせただけの壁は、ところどころ隙間があいていた。それでも、暖かいこの地域では気にならなかった。彼は昼間、屋外の作業場で家具を作る。家に水道はなく、トイレ・シャワーは隣家に借りに行き、食事は近所の友人宅に世話になるか食堂で済ませる。部屋には寝に戻るだけだった。夜はアンテナのないテレビでDVDを見ながら寝てしまう。私も彼と同じ生活を送った。
 私は彼のベッドの隣に寝袋を敷いて寝ていた。私はあまり喋る方ではなかったのだが、彼も家の中では口数が少なかった。自然、沈黙が長くなる。それでも不思議と気を使わずにいられた。お互いに、思いついたことをポツリポツリを口にする。どちらかが先に眠ると、もう一人がテレビを消した。
 ある夜、彼がふと口にした。
「オレはずっと1人だったんだ。仕事も1人でしてきた。今は組織のリーダーをしているが、どうすればいいのか自信がない」
 またこうも言っていた。
「若いころは白人になりたいと思って生きていた。10代で家族から離れ、町で働くようになった」
 若くして家族から自立した彼は、家具職人として各地を渡り歩いていた。
 彼から、先住民族の指導者だった父親であるフベナルさんの話をよく聞いた。「親父は組織の事をよく知っている」。そう話していた。
 パスト民族のフベナルさんは、結婚後、コロンビアのアワ民族コミュニティー・マグイに移住した。山を切り開き、サトウキビやユカ芋などを栽培していた。
 1990年代に、現在の紛争の原因となっているコカ栽培が地域に広がると、栽培の手軽さも手伝い、確実な収入源として多くの人が頼り出す。それでもフベナルさんはコカを「悪魔の作物」を呼び、決して手を出さなかったという。
 1996年には、リカウルテ市の一地区だったマグイを、先住民族領域(レスグアルド)として国に登記し初代首長を務めた。地域の先住民族組織の設立にも尽力した。
 敢えて自分たちを「先住民族の難民」と位置づけたルイスさんは、父親と自分を重ね合わせていたようだった。

 2010年は6月から7月にかけて2週間リタに滞在した。
 その間、変わらぬ生活から何とか活路を見出そうとする難民となった人たちの焦りが伝わってきた。何度か収益を得るためのプロジェクトを立ち上げては失敗を繰り返したという。そのときルイスさんは「あと1年が勝負かな」とも口にしていた。家族と離れて1年が経っていた。活動に行き詰まりも感じていたようだ。「あと1年したら、オレは旅にでる!どこか知らない所へ行くぞ!」。そう冗談めかして話していた。
 帰国が迫り、リタを去る私に彼は、部屋に飾ってあった木製のキリスト像を、大袈裟なくらいゴシゴシ服でふいて「もってけ」と渡した。それが彼との最後になってしまった。

 2011年にリタを訪ねると、私がリタを出た翌月、彼は突然リタを去っていったと仲間の一人から聞いた。手持ちの資材を全て売り払い、太平洋岸の町で金の採掘をしていたという。家族の元へも、亡くなるまで1年近く戻らなかった。死の3カ月前にリタに戻ってきたが、彼はグループの仲間と接触しようとはしなかった。昨年、奥さんのアンヘラにルイスさんの子どもが生まれた。しかし、彼は一度も会おうとはしなかった。

 

祖国を去る日

 昨年12月、帰国までの数日間を、首都近郊の町マチャチに暮らすルイスさんの家族と過ごした。彼らは家具作りで生計を立てている。年末までの注文が立て込み、家族総出で作業にあたっていた。
 ある日の午後、買い物に行くアンヘラさんについて行った。その帰り道、彼女は「彼(ルイスさん)、とってもつらい体験をしたのよ」。と言って、コロンビアを去る原因となった事件について話してくれた。

 ルイスさんは各地を渡り歩いたあと、地元のナリーニョに帰ってきた。結婚してからは、故郷に近いアルタケルで家具作りを始めた。周囲の評便は良かったという。お客さんの中に、町に暮らすゲリラがいた。ゲリラは普段、一般人と変わらぬ生活を送っている。ある時から、家具作りだけでなく、木製の銃床を依頼されるようになった。積極的かどうかは分からないが、彼はそれを作り続けた。これが彼の運命を変えることになった。
 2002年のある日の朝5時、ゲリラに敵対する右派民兵が、町の広場にトラックで乗りつけた。まだ誰もが寝ていた。民兵は銃を打ち鳴らし、怒声をあげる。住民全員が広場へ集められた。民兵たちは住民の名を書いた紙を手にしていた。それはゲリラに協力する人物のリストだった。そこにルイスさんの名前があった。集められた中から5人が呼ばれ、そのままトラックへと載せられた。
 5人は後ろ手に縛られ、どこか遠くの山奥で下された。拷問されたうえで、3人が殺され山へ埋められた。連れ去られてから3日後、ルイスさんが家族の元へ帰ってきた。体中が痣だらけだったという。
 その日のうちにアンヘラさんの両親が暮らす隣町へ、3人の子どもを連れて逃げた。翌日には約300キロ北のカリ市へと向かう。1週間後、家族5人でエクアドルへと渡った。「何もかも手放してきたの」。アンヘラさんが振り返る。
 長男で25歳になるマルティンに、「コロンビアを出た時のこと憶えてる?」と聞いたことがある。彼はしばらく間をおいてから、人差し指を頭にあて「あの日のことは、しっかり憶えている」。そう話すと、それ以上何も語らなかった。

 

彼が残したもの

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兄弟3人で家具を作るルイスさんの息子たち。父から受け継いだ技術で生活を送る。2011年12月エクアドル・マチャチ市


 私はエクアドルに通い出して4年が経つ。その間、同じ人に何度も会っている。それぞれが、会うたびに変化を遂げている。
 これは、ほんの一部ではあるが、私が触れることができた彼らの人生だ。この4年という歳月の後ろに、もっと沢山の時間の流れがある。話で聞くことしか知ることのできない、山のように積み重なった時間の上に、1人ひとりの今がある。それぞれの過去を知る度に、私は何も知らなかったんだと感じる。
 ルイスさんの事もそうだ。私は彼の何を知っているのだろう。彼はリタを去る時、何を考えていたのだろうか。私は彼から何も感じられなかった。

 彼は若いころ、故郷に対する反発からか、自由を求めて家を出た。そこには強い好奇心もあったのだろう。各地を転々としていた時期を経て、地元に帰り家庭を持った。その後、暴力が彼から「普通の暮らし」を奪った。
 ルイスさんは、酔うと何時もコロンビアの良さを自慢した。それでも「もう2度とコロンビアには戻らない」。そう話した。それは、帰りたくても帰れない故郷への思いを振り払うための強い言葉だったように今は思える。彼がリタで目指したものは、家族や友人と過ごせる、心の休まる本当の居場所を作ることだったのではないか。

 ある晩、二男のルイスが部屋に置かれたテーブルの脚を指してこう言った。
「オレはこれが作れるんだよ」
 それは精巧に彫られた白鳥の形をしている。
「彼がこれを教えてくれたんだ」
 ルイスは、どこかぎこちなく父親を「彼」と呼んだ。そこには、家族を遠ざけたまま死んでしまった父親に対する割り切れない感情が見て取れた。

「オレは君のお父さんが好きだった」
 私がそう話すと、彼は机の引き出しから沢山の写真を出した。それは父親の写真だ。集められるだけ集めたのだろう。若いころの証明写真もあった。写真を見ながら、ルイスがひとり言のように話し出した。
「去年、コロンビアのおじいちゃん(フベナルさん)の所に家族で行ったんだ。彼が『親父はもう年だから、もしかするとこれが最後かもしれない』って言って。それに、8月7日はオレの誕生日で、リタに行こうと思ってた。だけどお金がなくてさ。結局いけなかった。そうしたらさ、すぐ彼、死んじゃった」
「この白鳥すごいだろ。オレはこれができるから、これからも生きていけるんだ……お父さんがオレに教えてくれたんだ」
 そう話すと、小さく咳をした。
 ルイスはもうすぐ父親になろうとしている。出産を2月に控え、お腹が大きく膨らむお嫁さんのリリアーナが、隣の部屋で静かに寝ていた。

 ルイス・フェリペ・タピアさんは、難民となりエクアドルで暮らしながら戻れぬ故郷を思い続けた。彼は仲間、家族を捨て、孤独の中で最期を迎えた。なぜだったのか。彼が見ていた世界を、私は想像することしかできない。しかし、本人の意思とは別の所で、彼は息子たちに新しい故郷を築くための種を残した。その種はすでに芽吹きだしている。育って欲しい。人々を温かく包みこんできた、故郷の森のように。



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亡くなったルイスさんの家族。家族が力を合わせて生きている。2011年12月エクアドル・マチャチ市


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「SONRISA」に掲載された内容で、写真キャプションに誤りがありました。申し訳ありませんでした。
ブログへは、誤りの箇所を訂正し、掲載いたしました。

訂正個所は以下となります。

表紙・家族写真
「右から・父親のフベナルさん」→「左から」
「2012年12月」(撮影日)→「2011年12月」

ページ2・ルイスさんの写真
「2011年7月」(撮影日)→「2010年7月」

ページ3・墓を参るルイスさんの兄
「2012年12月」(撮影日)→「2011年12月」

ページ4・家具を作る兄妹
「2012年12月」(撮影日)→「2011年12月」

ページ5・ルイスさんの家族
「2012年12月」(撮影日)→「2011年12月」
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