コロンビア革命軍の最後 (「SONRISA」掲載)

コロンビア革命軍の最後

 2016年11月、反政府ゲリラ・コロンビア革命軍(以降、FARC)と政府の和平合意が国会で承認され、52年に及ぶ両者間の内戦が終結した。和平合意に基づき、翌2017年1月末より国内26ヶ所の集合地に集結した7,000人余りのFARC構成員の武装解除が、今年6月26日に完了した。
 
 コロンビア南西部のアンデス山中に位置するカウカ県北部に、ナサ民族ら先住民族が多く暮らすカルドノ市がある。カルドノからは、これまでに多くの男女がFARCに入隊してきた。今回、集合地が置かれた場所の一つとなったカルドノを、2016年と2017年に訪ねた。
 カルドノをはじめとする北部カウカ県のこれまでの歩みと、和平合意前後の様子から、農村におけるFARCとはどのようなものだったのかを見て行きたい。

1.武器を置くこと 
 
「もうコロンビア人同士で殺し合わなくていいんだ」
 FARC兵士リチェルが言う。2017年2月、武装解除に向け集合するFARCキャンプ地に彼を訪ねた。36歳のリチェルは、先に入隊していた2人の兄の後を追い、19歳でFARC兵士となった。貧しい先住民族集落で生まれた彼の周囲では、「世の中を変えたい」と思い抱く数多く若者がゲリラ兵士となった。彼も若者が持つ情熱の行き場をゲリラ活動へ向けた。以来、17年が過ぎた。何度も経験した政府軍との戦闘で多くの仲間が死に、彼自身も人の命を奪ってきた。戦闘だけではない「汚い仕事」もあったと話す兵士がいる。自分自身の存在意義となったゲリラ兵士としての姿と、武器を置くことで感じる安堵感の狭間で、彼の気持ちは揺らいでいるようだった。


2.農村に浸透するFARC

私がリチェルと出会ったのは2016年3月。当初、同年3月23日に和平合意に至るとの報道を聞き、私はその前後を取材しようと、前月の2月にコロンビアに入った。そこで知人を通じてFARCへ取材を申し込んでいる中で、現役戦闘員のリチェルを紹介された。

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コーヒーの収穫を終えたアルシビアレスさんと家族

 コロンビア南西部カウカ県にカルドノ市がある。市内には6つの先住民族自治区があり、多くのナサ民族が暮らしている。家族単位でコーヒーを作り暮らす零細農家が多い。収穫期は年に一度で、他の現金収入源は限られている。私はコロンビアに通いだして間もない2007年から、同市内サンローレンソ自治区に暮らすナサ民族のアルシビアレス(以下、「アルシ」)と彼の家族を毎年訪ねていた。リチェルはアルシの従兄弟にあたる。他にも、アルシの弟、息子、妹の夫や近隣の人々など、地域から数多くの人々がFARCに入隊していた。
 初めてアルシの家を訪ねた日、彼の家でFARCのPRビデオを見た。なぜそんなものを持ってるのか聞くと、「俺たちはFARCだぜ」と、誇らしげに彼が言った。当時、アルシの弟が戦闘員としてFARCで活動していた。アルシ自身の入隊経験はなかったが、FARCの考えを支持し、物資の運搬を手伝い、家に兵士を泊めるなど協力者として積極的にFARCと関わりを持っていた。当時まだ15歳だった彼の長男も、日本の高校にあたる学校を卒業すると同時にFARCに入隊した。のちにその理由を聞くと、「社会を変えるため以前から決めていた。自分の人生の中でやらなければいけない経験だった」と話した。


3.FARC活動地の歴史

 何故こんなにもFARCを支持する人々が多いのか。カルドノあるカウカ県北部は20世紀初頭、外部から押し寄せる資本家に先住民族の土地が暴力的に奪われてきた歴史がある。字が読めない住民に対し、説明がないまま土地の譲渡契約書にサインをさせ、明け渡しを拒否する住民に暴力が振るわれたという事例を聞いた。土地の権利を奪われて以降、元来、その土地の主人であった人々は、同じ場所に住み続けるため借地代を地主に支払うこととなった。

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カウカ県北部に広がる肥沃な大地で先住民族が土地を奪われてきた

 カウカ県北部のハンバロ自治区では、地主の農場で週に5日、6日無償で働くことで借地代の代わりとし、空いた時間で自分たちが食べるトウモロコシの種をまいたと聞く。1970年代、この理不尽な環境を変えようと抗議した男性がハンバロにいた。地主は抗議を許さず、男性を殺害し、遺体を切断した上で、収穫したトウモロコシを入れる大きな袋に詰め込み、男性の家族が暮らす自宅前に捨て置いた。
土地と自由を奪われた状況に抵抗するため、カウカ県では1970年代、「土地の解放」を中心に据える先住民族運動が活発化する。1971年に組織されたCRIC(カウカ先住民族地域協議会)は、先住民族の復権運動を強く牽引する組織として現在に至っている。
 同時期の特筆する人物として、カルドノ出身のナサ民族で、カトリック司祭であったアルバロ・ウルクエ神父がいる。彼は土地解放運動の先頭に立ち住民を啓発していった。彼の行動は、今もナサ民族の学校で教えられている。神父は各地を細やかに訪ねて周り、先住民族である住民に土地の主権者は自分たちであることを説き、地主から土地を解放しなければならないとして住民を組織していった。活発な活動をする神父だったが、1984年、地主が放つ暗殺者に殺害されてしまう。
 地主と先住民族による土地問題を抱えてきたカウカ県北部には、様々な社会運動組織が出入りし住民運動に関与していた。その中にFARCを始め、ELN(民族解放軍)、M-19(4月19日運動)など、複数のゲリラ組織もいたという。1980年代には、カウカ県の先住民族自身が銃を取り「キンティン・ラメ武装運動(MAQL)」としてゲリラ活動を始めている。この地域では声をあげ、不正を押し付ける強者に対峙することが生きるために必要だった。1970年代、80年代を知るアルシは、「子どもの頃にゲリラを見て、かっこいいもんだなって思ったよ」と話す。日常の中に、極めて身近なところにゲリラが存在し、憧れの目で眺めていた。
 1991年、コロンビアで新憲法が制定された際、MAQL、M-19らは武装解除し、制憲会議に参加し合法政治組織となった。しかし、武装活動を継続するFARCは、カウカ北部でそれ以降も強い影響力を残してきた。


4.若者にとってのFARC

 カルドノでは1990年代以降も多くの若者がFARCに入っていった。このことについてアルシから話を聞いた。カウカ北部で活動していたFARC部隊の一つにハコボ・アレーナ機動部隊(のち戦線に昇格)がある。この時期、「ハコボ」の兵士であることが、若者にとって「かっこいい」存在と捉えられていたようだ。当時、ハコボの司令官にカリチェという人物がいた。背が高く白人系の顔立ちのカリチェは、見た目に都会的な雰囲気が漂っていた。人を惹きつける魅力があり、説得力のある話にアルシも引き込まれたという。
 カリチェは山間に点在する様々な先住民族集落を訪ねた。住民を集め、コロンビアにおける農村が置かれてきた状況を説明し、不正がはびこる社会を変えるために革命が必要だと説いた。コーヒー畑の中で、若者たちを集めて車座に座りながら、その輪の中で快活に話すカリチェの姿を、アルシは特に印象に残っているとして好意的に話した。
カリチェの言葉に焚き付けられるような思いを抱く若者たちがいた。アルシの長男ハビエルも周囲の若者と同様、その一人だった。私がアルシたちと出会った当時、ハコボの隊員の大多数が先住民族だと聞いた。不平等な社会で生きる若者たちの情熱を吸収しながら勢力を増していったFARCの姿があった。
 一方、カウカの先住民族運動の中心組織CRIC(カウカ先住民族地域協議会)は、ゲリラと距離を取りながら、農場占拠や道路封鎖など、より活発な復権活動を展開し現在へ続く。ゲリラと地域の関係の深さが、反ゲリラ勢力である準軍民兵組織や政府軍による住民への迫害に繋がってきた。先住民族運動自体をゲリラと同一視し、「テロリスト」と報道する場面もあった。
 2002年、ゲリラに対し強硬策をとるアルバロ・ウリベ氏が大統領に就任すると、ゲリラに対する激しい攻撃が繰り広げられた。ゲリラ活動地では、そこに暮らす住民は、少しでもゲリラと関係を持ったと疑われれば攻撃の対象となった。ゲリラを孤立させるため、軍と癒着していたされる民兵が住民を大量虐殺する事件が全国で相次いだ。迫害を受ける農村から避難民が続出した。カウカ県で活動していたFARC兵士は「ウリベが大統領になり、食糧補給など、住民の協力が得られにくくなっていった。居場所を密告する住民も増え、活動することが難しくなった」と話す。
FARCは組織活動を維持するために住民への監視を強めた。軍や民兵と繋がると疑う一般住民を見せしめとして殺害した。ゲリラ、民兵、軍の間に挟まれる地域では軍事組織から距離を置き自立の道を模索する指導者が現れるが、FARCはそれすらも「裏切り」と捉え、銃を向け、命を奪った。住民を抑えるため「裏切り者」の周囲までも殺害する集団虐殺もあった。
 カウカ県北部の山間部にトリビオという町がある。ここにはウリベが大統領に就任して以降、対ゲリラの警察施設が置かれたことでFARCの激しい攻撃にさらされてきた。幾度も繰り返される戦闘の中で住民の犠牲者も多数出ている。同地で活動してきたFARC第6戦線所属の兵士にトリビオのことを聞くと、「ここでは中立はあり得ない」と言い、警察への攻撃に、住民への圧力の意味が含まれていたことを示唆した。激しさを増す状況の中で、FARCを支持する人々と、そうでない人々の距離が地域によって大きく分かれていった。


5.和平交渉の中で揺れ動く人々

 2016年に締結された和平合意を受け入れ、武装解除プログラムに参加した各FARC部隊は、2017年1月31日より全国26ヶ所に設置された集合地へ集まった。集合地の一つがカウカ県カルドノ市にある。一部、合意内容に反対する戦線や小規模なグループが、現在も銃を手にして活動を続けていることを補足する。
 集合地が設置されるに至る経緯を見て行きたい。当初の予定では、2016年3月23日に和平合意に至るとされていことを前述した。私は和平合意の瞬間をFARCキャンプ地で取材できないかと考え、同年2月から5月にかけカルドノを訪ねていた。現地では、3月23日を間近に控え、集合地を置くためにFARCと地元住民との話し合いが続いていた。カルドノはもともとFARCと関係が深い地域にあり、住民に対し信頼の置けるこの場所に、FARC側から集合地の受け入れを要請していたという。
 3月の和平合意は結局流れた。このことについて4月にFARCハコボ戦線所属の構成員に話を聞くと、FARCの安全確保に対する政府の態度が一因となっていた。FARC側の要請は以下の通りだった。まず、全国6ヶ所に集合地を設け、FARC兵士が武器を持った状態で集まること。集合地の周囲に政府軍との非武装緩衝地帯を設けること。武装解除には第3国による監視団が当たること。これらを政府に要求していたという。一方、政府はFARC に対し、全国のFARC構成員はまず武器を手放し、武装解除した状態で1ヶ所の集合地に集まるよう求めていたという。政府の強硬な態度が見て取れる。しかし、FARCにとってこれは飲めることではなかった。背景にあるのが、1985年、和平合意に応じ合法政党の愛国同盟(UP)を結成した際、3,000人ものFARC関係者が次々と暗殺され、政党資格停止に追い込まれた歴史だ。安全が確保されなかったことが、3月に合意へ至らなかった大きな要因の一つとなった。

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武装解除に臨むFARC戦闘員

 FARCの支援者が多いカルドノでも、受け入れに反対する人々がおり、意見が分かれていた。地元の指導者や、自治区評議会の代表団がなんどもハコボ戦線のキャンプ地に招かれ、部隊指導部との話し合いがなされていた。反対する人々は、FARCに銃を向けられてきた人、もう武器を持つ時代ではないとしてゲリラと距離を置き先住民族運動で自分たちの社会を前に進めていくべきとする人々だった。カウカの先住民族組織CRICは、FARCの受け入れに反対していた。その理由として上記の理由以外に、「紛争後」にFARCが政治参加することで、先住民族運動に関わる人々がFARC側に流れ、運動が弱体化してしまうのではという考え持っていた。
 2016年4月、和平交渉に住民がどう関わるかを話し合う集会が、左派系市民団体によりカルドノで開かれた。そこでは、和平交渉が行われているキューバから、FARC最高司令官ティモチェンコのビデオメッセージが届き流された。ティモチェンコはいかにFARCがコロンビアの農村のために交渉にあたっているかをPRした。この集会には現役のFARC構成員も準備に多数関わっていた。カルドノでの調整員には50歳代の男性構成員があたっていた。彼は年齢的に高齢なため、戦闘員としては活躍することはできないが、普段から農村に入り、部隊が活動しやすくなるよう、住民との間で調整する仕事を担っていた。
 その後、集合地がカルドノに決まった後も、部隊が移動してくる半年前から、同様に高齢の調整員が複数現地入りし、多岐にわたる和平合意内容を住民に周知し、今後訪れると考えられる人権団体など外部関係者やマスコミの宿泊先となる場所の確保など、細やかな動きを見せていた。これは補足ではあるが、こうした高齢の構成員は数十年間FARCで戦闘員として生きてきた。私が出会った調整員の一人は家族との関係はすでに途絶え、他に行き場を失っていた。一般社会の中で生きる場所を見つけることが困難な彼らに、戦闘以外の場面でFARCが居場所を与えていた。
2016年5月に私が帰国する間際には、カルドノの先住民族代表団がハバナに赴き、FARC最高指導部と直接会談することになった。彼らが渡航したのは、その後、間もなくしてのことだった。渡航費は先住民族自治体の予算から都合し、一週間のハバナ滞在費用は全額FARCが持った。現地では最高司令官を始め指導部との会談が催され、自治体への協力が要請された。


6.司令官の告白

 2017年1月末から4月末まで、私は再びコロンビアを訪ねた。この間、カルドノを含めて3ヶ所の集合地を訪ねた。カウカ県に隣接するナリーニョ県北部の農村ポリカルパに、第8と第29戦線の集合地が置かれている。ここで第29戦線のハビエル・グスマン第2司令官に話を聞いた。
 現在50歳の彼は、大学生だった26歳の時に戦闘員としてFARCに入隊した。父親が農民運動の指導者だったことから、幼い頃から社会問題に関心を持ち、16歳で共産党に入党した。FARCに入った当時、愛国同盟の仲間たちが次々と殺されていくのを間近で見ていた。ハビエルがFARCに入って以降、市民である彼の兄弟も暗殺された。これ以上身内へ危害が及ぶことを恐れ、彼は家族との関係を断ち20年以上が過ぎた。
 彼に和平合意と今後の展望について聞いた。彼は「この戦争は長すぎた」と言い、「我々も多くの仲間を失った。誰もが疲れている」と話した。さらに、「今の我々にはボゴタ(首都)を落とすことはもうできない。一度の戦闘で数十人の政府軍兵士を殺害しても、何も変わらないことはこれまでの経験が証明している」と続け、「武装闘争を続ける上での社会的状況、コロンビア人自身の意識が大きく変わってしまった」そう近年の苦境を吐露し、「だからこそ、私たちも変わらなければいけない」とした。口調はあくまで穏やかだ。
 コロンビアには内戦の原因となった社会格差、貧困が今なお拡大しながら横たわる。社会変革の必要性は変わらないが、そこに向かう手段は大きく変わった。携帯電話やインターネットなどの普及により、農村自身が直接メッセージを発信し、広く世界と繋がりだしたことは大きな変化だ。近年のFARCは保身のために農村の自立を阻んできた。
ハビエルが言葉を続ける。「世の中は変わった。私たちも変わらなければならない」「農村の力を我々は信じている。農村を尊重しながら、どう生活を向上させていけるかが重要だ」「我々は銃を置く。より広く社会運動を展開するために、『言葉』を武器に戦い続ける」「我々は変わる決断をした。しかし、本当に平和な社会を作るためには政府、コロンビア人自身が変わらなければならない」とし、「若いエネルギーを政治に向けるよう活動し続けていきたい」と展望を語った。

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24 年間の武装闘争に終わりを告げたハビエル第二司令官

7.本当の平和とは何か

 以上は、コロンビア南西部の農村から見た、この戦争のひとつの形だ。善悪だけで語ることができない複雑な人間の思いが交錯してきた。その中で、53年間存在し続けてきたFARC が終焉を迎えたのは、大きな時代の変化だと感じる。しかし、内戦の原因である社会格差は今なお拡大し続けている。その中でゲリラには、コロンビア社会に居場所を失った人々が辿り着き、その受け皿となってきた一面がある。「FARCは新しい自分を獲得できた場所であり、苦楽を共にした仲間は家族そのもの」と話す若い兵士がいる。
 詳細を述べるスペースはないが、この「和平」からこぼれ落ちた人々がいることも忘れてはいけない。太平洋岸の港町トゥマコ市では、麻薬の積み出し港となっているため、麻薬マフィアや形を変えた民兵組織が存在し、FARCが抜けた空白地帯で勢力を伸ばしている。それらと対立してきたFARC構成員は、武器を置いてしまうと自身だけではなく、家族や仲間の命が危険にさらされる。彼らはFARCを抜けて新たな組織を結成し武器を取り続けている。
 誰もが戦争など望んでいないにもかかわらず、コロンビアの辺境で生き続けてきた人々は今も社会の歪みを一身に背負い続けざるを得ない状況にある。ゲリラ兵士が再び居場所を失わず、誰もが武器を置き暮らせる社会建設こそが、本当の意味でコロンビア社会への平和の訪れとなる。


8.最後のFARC兵士

 FARC兵士リチェルが私に言った。「戦争が終わったら日本に行きたい。俺も広い世界を見て見たい」。彼の名はゲリラ名だ。戦闘員としてFARCに入隊した時点で、活動のため本名を捨てていた。本名で取得したパスポートで世界を見るという、私にとって当たり前のことを彼は夢として語った。今年6月、FARCの武装解除が完了したというニュースを私は日本で見ていた。そのニュースを見ていた同じパソコンの画面で、私のFacebookのタイムラインにリチェルの投稿が流れてきた。
 「17年連れ添った銃を今日置いた」
 その言葉とともに、銃にキスするリチェルの写真が添えられていた。言葉にすることができない彼が過ごした36年分の思いが滲み出ているように感じた。

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この銃口を、二度と向け合うことがない世界を作らなければならない。

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