トウモロコシを撒くのをやめる

コロンビア南部のアンデス地方で、「もうトウモロコシは撒かない」という20代、30代の若い人に立て続けに出会った。要は「金にならないトウモロコシはやめて、金になる物を作る」ということなのだけれど、その地域ではつい最近までトウモロコシを広い面積に撒いて収穫することが農民としてのステータスというか、他の人に対して見栄を切る場面だったようなのだけれど、とても大きな変化だと思う。
(つい最近までというより、今も40代位までの人は、人より広く撒いて収穫することに充実感を持っている人は多い)
 
生活の中でも、トウモロコシは一年の時間の流れの基準のような位置にあったような感じでもある。
 
色々な原因で、近年は紛争で町に出て行った若者は、多くはもう山には帰ってこない。この地域ではつい最近まで人々にとって重要な価値観であった共同体的な社会で生きることから変わって、より町で金銭を稼ぐことの重要性が増しているからだと思う。
 
網野善彦氏の「日本の歴史をよみなおす」という本を読んでいると、こんな一文があった。
 
現代が、文明史的、民族史的な次元での区分からの見方に立ったときの大転換期にさしかかっていると踏まえた上で、『室町期、十四、五世紀にできた村や町のあり方が、今や崩壊といってもよいほどの大きな変化にさしかかりつつあることは疑いないと思いますし、人の意識の上にも大きな変化が起こりつつあります(中略)日本の社会はいま、十四世紀の転換以来の大転換の時期にさしかかっていると考えられるのです。』
 
日本と遠く離れたコロンビアの、さらに山の奥にある地域で起こりつつあることが、同じこの時期に、日本の農村で起きていることと繋がっているように感じる。これにはどんな意味があるのだろう。コロンビア最南部のある集落が、この10数年の間に戦争に巻き込まれることになったこととも、何かその根幹の所で繋がるきがするのだけれど。
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日記 2月21日

1日アルタケルですごす。
フベナルさん夫妻の古い写真発見。これは貴重だ。

昔話。

「昔のグアラーポ(サトウキビの発酵酒)は大木をくり抜いたものに絞り汁をためて発酵させた。今はプラスチックの容器で作るが、どうも発酵が良くない。味も良くないし、腹を壊すこともある。昔のミンガ(地域の恊働作業)の時は、大量のチチャ(トウモロコシのジュース)やグアラーポを作って昼飯代わりにそれを飲みながら仕事をした。力がわいてくるんだ。腹なんか全然すかなくてな。夕方になるとみんな酔っぱらって来てそのまま寝転んでるのもいたな。」

山を歩くときに焼酎を飲むと力が出る、というのは、この時代のことが元になっているのかもしれない。
焼酎を飲むと力が出るというより酔っぱらっちゃってしょうがない気がするのだけれど。

日記 2月20日

前日、昼過ぎに山を下りる。
またフベナルさんの所に厄介になる。いつものようにひげ剃りをする。

この日はリカウルテから少し上った所にあるチュクネスという街道沿いの集落から山を登っていったところにある「プラナダ」で紛争犠牲者救済法を中心とした、和平に関するワークショップが開かれる。土日の二日間を使って、ナリーニョから二つの先住民族組織(UNIPA, CAMAWARI)カウカからCRICが参加し、弁護士や学者による講義を受ける。

コロンビアでは2012年に紛争によって家族を失ったもの、怪我を被ったもの、土地や財産を失ったものに対して政府が補償をしていくという「紛争被害者救済法(ley de victima)」が制定された。しかし、その手続きや、そもそもどこまでが「犠牲者」として補償の対象となるのかなどとても分かりにくいことが多い。肝心の紛争の現場で生きて来た人々は、国の中の「辺境」に位置している場合が多く、情報に接することが難しい環境で生活をしている。さらに、手続きを進めるためには、役所のある町に出向く必要があり、そこまで日帰りできない場所に暮らす多くの人は、交通費、宿泊費、食費など、手続きそのもの以外にかかる経費を賄うことができないでいるという話しをあちこちで耳にした。手続きを進めても、実際に補償を受けられるかどうか分からない。

紛争の被害を受けて来た人々は、コロンビア社会の中で力を持たない人々が多くを占めている。法を理解し、犠牲を被って来た地域が連帯して権利を主張していくことが、「紛争後」の社会においても、農村が主体的に生きていくために必要なことだと話し合っていた。




僕は一日だけで退散。
帰りに、車に運良く乗せてもらう。大分以前に訪ねたことがあるカウカ県南部の地域の人が運転する車だった。話しが弾んだ。

リカウルテでマグイの女子と再会。
周りにあおられて、なんだか妙な空気になってしまっていた彼女だが、ちょっと雰囲気が柔らかくなっていたな。

銀行に行こうとすると、隣の警察駐屯所前に戦車が二台。装甲車が一台。周りを兵士が囲んでいた。じろじろ見ていたら軍の中年兵士に捕まる。中々しつこい。部隊長らしい。この年代で現場にいる人物は迫力がある。ちょっとややこしくなったが、解放。迫力があった。



日記 2月19日

ホセさんの自宅に泊めてもらう。

早朝、彼の家の前を急ぎ足で通り過ぎるメリーさん。彼女の自宅は遠い。
どうやら馬が逃げてしまったらしい。この日はサトウキビをしぼって、固形の黒砂糖・パネラを作るというが、馬がいないと作業ができない。あわよくばその場を見せてもらおうと思うが、結局、馬が捕まらず作業は延期に。

学校へ行く。
casa de espirituaridad のイメージを話し合う。
面白く広がっていきそうだが、広がりすぎて資金は全く追いつかない。
ラジオ局をおくというのはとてもいいなと思った。
エミーロが以前にリカウルテでラジオのDJをしていたらしい。するめのように話しを聞けば聞くほど味が染み出てくる人物だ。

昨日今日と僕と同世代に人が「もうトウモロコシはまかない」という話しをしているのを聞いた。
金にならないものはもうやらないということ。トウモロコシと離れていくということは、何か、決定的な殊に繋がっているように思える。

「残念」ということ感情的なところ以上に、その本質のようなところを摑まなければいけないのではないだろうか。

古い写真

フベナルさん、ラウラさん夫妻の古い写真が出て来た。
16ページのアルバムに、20枚の写真が納められていた。湿気で大分痛んでいて、画像が判別できない物もあるが、古い時代のマグイのことも知ることができるとても貴重な物だ。

そもそも、僕がアワ民族の暮らすマグイに行くことになったのは、このフベナルさんの言葉が大きなきっかけだった。

二人は避難民として町に暮らしている。
僕はいつも二人の家を旅の拠点にさせてもらっている。
大きな荷物を預かってもらい、必要な物を持ち出して外に出て行く。月に何度か戻って来ては数日滞在してまた出て行く、ということを繰り返している。

二人の家に戻ってくる度に、二人にマグイの話しを聞かせてもらっている。
フベナルさんは病気を患い歩くことが侭ならない。彼が話すマグイの話しは何度聞いても新しい発見がある。紛争に関する話しもそうだけれど、それよりも、彼らが主役だった古い時代の話しを聞くと、その度に僕は胸躍るような気持ちの高ぶりを覚える。そして、作物を作ることが何よりの生き甲斐だった彼が何とも嬉しそうに「あそこは何でも良く育ついい所だったんだ」と話すのを聞いて、どうしてもマグイに行ってみたくなった。

アルバムの写真には、若い頃のフベナルさんが、飼っていた牛を世話していたり、女の子と踊っていたりする姿があった。
これまでに聞いていた話しと合わさって、想像が広がっていく。




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日記 山の中で

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コカの葉をガソリンで浸す

元FARC(コロンビア革命軍)の兵士と会った。
現在20代半ばの彼は11歳のときに入隊し、3年間戦闘員となって活動していた。

入隊前、彼は町から遠く離れた山奥の集落に暮らしていた。ある日、ゲリラ部隊が集落にやってきて、住民に社会情勢を説いた。いかに社会に不正がはびこり、農村が搾取されているか。そんな話しだった。彼はその話しに耳を傾けながら、明快に話しを進める女性兵士に夢中になった。色が白い北部出身の女性だった。「もうさ、一目惚れしちゃってさ」。集落を去る部隊に彼はそのままくっついていった。それが彼の入隊した動機。
部隊には10代の兵士も少なくなかった。それぞれ、銃に興味を持ったもの、政治的な思想に惹かれたもの、家庭に居場所を失ったものなど様々な理由でそこにいたという。

除隊した理由は、部隊長を始め、戦闘で部隊にいた大部分の仲間が死んでしまったからだという。
彼が惹かれた女性兵士も戦闘で死んだ。残ったわずかな兵士で「もう家に帰ろう」そう話し合って山を降りたのだそうだ。政府に投降はしていない。

彼は今、小さな田舎町で妻と二人の娘と暮らす。山には妻の実家の土地があり、そこで1ヘクタールほどの畑にコカを栽培し収入を得ている。おそらく、どこにでもいるコロンビアの農民の姿だ。FARCが武器を置くことに付いては「もう戦争はたくさんだよ」と話す。

ただ、彼が作るコカの販売先を辿ると、右派民兵に行き着くという。現在FARCが持つルートも、もし彼らがいなくなれば民兵か、他のグループがそこに収まるのではと話す。結局、戦争は終わらないの?そう聞くと、「わからない。でも、ここにはこれ以外に収入を得る手段なんか何もない。親父の世代はこれすらもなくて、本当に大変だったんだ。」淡々と語る彼の語気が少しだけあがった。

彼の幼いとき、父につれられて町に買い物に行った。馬に乗って何時間もかけて。山に暮らす彼らは長靴しか持っていないかった。泥だらけの長靴に汗臭い服。店によっては入店を断る所もあった。そんな記憶が彼には残っている。彼は口にしなかったが、そのとき彼は傷ついたんじゃないかと僕は思った。悔しかったのかもしれない。

多分、こういった記憶の積み重ねが、この社会の色々な場面に繋がっているように思える。





2月9日 ホセさんと再会

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「最近、よく餌をねだりに来るんだ」という野生のオームがホセさんの腕にのる。


2月9日 前日についた麓の町からホセさんの暮らすマグイへ向かう。
以前は6時間かけて歩いて行くしかなかったが、少しずつ道が開けて今では大分奥地までバイクが入れるようになった。
バイクを持つ知人に頼んで行ける所まで乗せてもらう。40分程走る。4時間は歩いていた道のりがあっという間だ。
そこから急なつづら折りの山道を登っていく。

2時間ほど歩いく。久々のこの道はキツい。登りきったところに沢がある。ここの水を飲んで一休みするのがいつものパターン。顔を突っ込みガブリとやる。冷たくてきもちがいい。
足を進めると、ホセさんが働くマグイの学校が見えてきた。僕がいつも寝泊まりをさせてもらっているところだ。
敷地内に新しい校舎がたて始められている。

学校に着き、先生、生徒たちに挨拶をして回る。ホセさんの休憩場所となっている敷地の片隅にある用具小屋に行くとホセさんが小さなベットに横になっていた。去年6月以来の再会。あまり久しぶり感はない。ベットの枕元に手製の棚がある。日本で色々な人にもらったお守り、キンカン、サロンパス、置物などなどが丁寧に並べられていた。

日本からの預かりものを渡す。愛知で作った瀬戸物が二つ。1つにひびが入ってしまっていた。瀬戸物を作ったときのビデオを家族で見ていて楽しみにしてくれていたのに申し訳なかった。

夕方、授業も終わり、その日はホセさんの家に一緒に行くことに。一晩泊めてもらう。
妻のロサさん、孫たちにお土産を見せながら、それをくれた人たちとの思い出を話すホセさん。僕があげる各地で出会った人の名前を聞くと、すぐにその人との思い出が口をついて出てくる。こういうところがこの人の凄さなのだなと思う。

最近は、自宅にオームが良くやってきて餌をねだってくるのだと嬉しそうに話してくれた。
それと、自宅裏に作った池で魚を育てているのが順調だそうだ。
今日は再会のお祝いだと、魚を振る舞ってくれた。近所の友人も混じって、食後はビールと土地の酒を飲んだ。
12月から停電が続いていたらしいが、この日、うっすらと電気が灯った。電圧が安定せず、その直後に急に明るくなったと思ったらまた切れてしまった。蝋燭の明かりのもとで会話が弾む。小便をしに外に出ると、夜空を埋め尽くす星々。月は出ていないのに足下が明るい。

また飲み続けるも、不覚にも、途中で猛烈に眠くなってウトウトしてしまった。
エンジンがかかってきたホセさんにつき合いきれなくなってしまい、ダウン。

隣の集落に政府軍がキャンプをしているが、この一年程は戦闘は起きていない。
最近は政府と和平交渉中のゲリラFARCは、この地域から少し離れたところに移っている。
それに変わって、もう1つのゲリラELNがこの近くに入ろうとしているという話しがある。

会話の中で、そんな話題も出た。



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ホセさんが働くマグイの学校。ここにいつも僕は寝泊まりしている。

2月7日 

首都ボゴタから南部ナリーニョ県都パストへ。
20時間バスの中。良く寝た。

ちょうど正午に到着。小雨が降り、寒い。標高2527メートル。間近に活火山のガレーラ山を望む。
ここのターミナルの一階に、いつも行く食堂がある。肉の焼き加減がふんわり絶妙。スープ、ご飯、肉、サラダ、揚げバナナに飲み物(レモナーダか人参ジュース)で6000ペソ(200円)。腹一杯になる。

建物入り口で偶然知り合いにあう。お互いに思わず大きな声がでて肩を抱き合う。

今日はすぐに動けず、ここで一泊。ネットが繋がる宿を見つける。
一手間を惜しんで、いらぬ労力と人に迷惑をかける。

協力してくださる方にただただ感謝。
さてさて。

2月6日

早朝の出発のつもりで寝ずにいたが、所用で夕方に出発を遅らせる。
諸々作業。荷造り。一旦チェックアウト。出発まで荷物を預かってもらう。

15時、タクシーを拾ってバスターミナルへ。18000ペソ。
16時30分発パスト行きのバス。115000ペソ。翌日昼の到着予定。

連絡の行き違いで、人を待たしてしまった。来週訪ねると伝え直す。
パンと水を買って出発。コロンビアのパンはとてもうまい。

2月5日 日記

6時に目が覚める。明け方にメッセージが。まだ会った事はなかった、日本で友人を通じてやり取りがあった方がボゴタにいるという。明日の朝にはボゴタを離れないといけないところ、運良く時間が合い、待ち合わせてお昼を食べる。ご縁かな。

日本に一通やり残しのメールを送る。
USBメモリーを買う。11700ペソ。

何人かの友人に電話。3月くらいに会えたら良いなと。
ホセさんに電話。「戦闘はもう久しくないよ。軍は隣の集落にキャンプしてるけど、邪魔してこないよ。」

しばらく歩く。

18時、待ち合わせた人と合流。夕飯を食べる。
初対面でちょい緊張。コロンビアの個人主義、階級社会とがっぷりくんでやり合う生き方。
自分たちは「出たとこ勝負」と。

会話をしていると、ここでもまさかの人と繋がった。驚く。

昨日の話しだけれど面白かったのが、コロンビアではパーティーに招待されたら遅れていくのが礼儀という事。
時間前にいくと、「こいつは早く来て飲み食いしようとしている」といやがられると。
1時間くらい遅れて、準備もゆっくりやってもらって「いやー 遅れちゃってごめん」といいつつ、そこから食べて、飲んで、踊って、招待してくれた人の期待以上に楽しむのがコロンビア流なのだとか。

21時半帰宅。
明日は朝早い。20時間のバス移動。バスでは寝るしかないので出発まで起きていよう。

携帯を買った。

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コロンビアの英雄・ガボ

2月4日 歴史的記憶の家

夕べは寝落ちしてました。
気がついたら、布団をかぶらずに明け方4時。いくら昼間暖かいとはいえ、そこは標高2800mのボゴタ。冷えました。
二度寝して7時に目が覚めた。時差ぼけは抜けたようです。

昼間、もろもろ日本とやり取り。冷や汗。
コロンビアの人で連絡がつかなかった人とやっと繋がった。「何だお前、くる前に連絡しろよ」って、連絡してたのにいつも電波入ってなかったじゃん。でも来週には訪ねられそう。気分があがる。

午後4時、雨が降る。

小降りなので歩いて出発。某日本食やで密会。
久々の人に色々はなしを聞こうとしたが、店主の話を聞く会に。織り込み済みです。
満腹定食。持参した焼酎で満足。同席したコロンビアの若い人も交えておしゃべり。

帰り道、各地で作られている、紛争の歴史を記録した『歴史的記憶の家』の話になる。
中には行政主導のいかにもな箱ものもあるという話。一方で多くは犠牲者遺族が中心となり造られたものだ。僕が訪ねた所はそうだった。壁一面に持ち寄られた亡くなった人たちの写真が貼られている場所、犠牲者一人一人の名前が書いたノートが用意され、訪れた人、親族がそこへメッセージを書いていくもの、展示施設で家族に犠牲者を持つ女性が助け合い編み物を教え合うものー。  それぞれに色がある。

地方に行くと、あまりにも沢山の人が死んでいったことを知る。激しい時期をくぐり抜けた所(農村が多い)では、親族の誰かしらに犠牲者がいたり、その暴力に関わっていたりする。僕はその人たちが、身近すぎた(身近すぎる)死とどう折り合いを付けて今を生きているのか、どうしても分からなかった。自分がそこに身を置き長い時間をともに過ごしても、距離が近づけば近づくほど分からなくなる。

自分と関係のない所で始まった戦争が、自分の意志の及ばない所で終わろうとしている。
皆、どう思っているんだろう。

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CASA DE MEMORIA HISTORICA DE TUMACO (2013年に開館したトゥマコ市の歴史的記憶の家。遺族に寄って持ち寄られた犠牲者の写真が壁面に並ぶ。)2013年撮影


2月3日 着きました

コロンビアの首都ボゴタに着きました。
安いチケットで来たら、普段の倍近い時間がかかってしまいました。くたびれました。
普段なら、日中でも20度くらいの過ごしやすい高原の町なのですが、異常気象のせいでこの3ヶ月雨が降らず、27度にまで気温が上がっているそうです。タクシーの運転手が「もうたまらん」とぐちっていました。


さて、今のコロンビアですが、国内最大の反政府ゲリラと政府の間で、3月23までに和平合意がでると言われています。(他のゲリラグループとはこれから和平交渉が始まるので、これで内戦終結とは言えないのですが)
この日を跨いで、これから3ヶ月間こちらで過ごしていきます。

半世紀の内戦の区切りの年になるのだと思います。

一日で大きく何かが変わる訳ではないし、今の現状で派手な出来事はそんなにあるわけじゃないと思います。それでも、今この時期を生きる人々の空気は、ここに来る事でしか分からないと思います。

とにかく、人の間を歩けるだけ歩いていきたいと思います。
その様子をこちらでご報告していきます。

(元々無精者なうえ、ネットがない所もあるので、マイペースでという言い訳をさきにつけさせていただきます。。。)

日記2月3日 

  • Day:2016.02.03 20:06
  • Cat:日記
ただ今マイアミの空港。現地時間午前6時。午前5時半に到着。ロスから4時間半の飛行時間。3時間の時差。アメリカは広い。マイアミは暑い。飛行機を降りたとたんムワッとしたぬるい空気がまとわりついた。

あちこちでスペイン語が。ロスよりハッキリ聞こえる。

次はボゴタ行き。午後2時半出発、現地に夕方6時半到着予定。こことは時差なし。

メモ代わり。

日記2月2日 ロサンゼルス空港で乗り継ぎ待ち

  • Day:2016.02.03 04:27
  • Cat:日記
2日の17時20分発で出国。
ただ今午前11時半。ロサンゼルスで乗り換え待ち。21時半までここで過ごす。
餞別でもらった菓子パンで昼飯。コーラの600mlペットかったら3ドル。
入国のシステムがまた変わってた。

さて、時間はあるのでやり残してしまった事をやってしまおう。コロンビアに着く前に。

出発の前の日

  • Day:2016.02.02 01:19
  • Cat:日記
明日(もう日付が変わってしまったから今日。。)は出発の日。
一年ぶりのコロンビア。今回は、3月23日という日程が出ているFARCと政府の和平合意に合わせての渡航。去年の10月に、半年以内に結論が出るという話が出ていて、いつどのタイミングで行くのが良いのか悩んだ。悩んだのだが、結局資金がたまらず、今のタイミングでしか行けなかったのだから、結果オーライ。そんな事はあまり言わない方が良いのかもしれない。

まずはボゴタに入るのだけれど、気分としては、今回の旅はエクアドルからの気持ちでいる。カリによったら早めにエクアドルいこう。
エクアドルでは、ここまで関わってきた難民の人たちにまず会いにいこうと思う。故郷を離れて10年〜15年。自分たちの意志と関係のない理由で土地を離れ、そして今、自分たちの意思の届かない所で戦争が終わる。「あの日の事は忘れない」。エクアドルへ渡った日の事をそれ以上語らない彼にとって、この戦争は何だったのか。

あ、ホセさんへと預かっているお金が33万円。重要な任務。ドルに両替して現地でペソに替える。そして、コミュニティーへ贈呈。なるべく厳かに渡したいところ。

これまでの人の縁を旅しようと思っている。急がしいそうなあの方々にも連絡済み。
ただ肝心のホセさんが何回かけても電話が繋がらない。しょうがない。

明日は17時の飛行機。家を昼くらいに出れば良いか。
それまでに、処理しきれてないもろもろを片付けねば。
借りて見てないDVDは果たして見れるのか。



先日、講義をさせていただいた阪南大学のホームページに、そのときの様子が記事になっています。
お招きいただきありがとうございました。

http://www.hannan-u.ac.jp/doctor/moriya/mrrf4300000261mq.html