辺境の故郷 コロンビア・アワ民族

2014年7月発行「SONRISA」(日本ラテンアメリカ協力ネットワーク)に、アワ民族(コロンビア)の記事を寄稿し、ブログに転載しました。(一部加筆修正しています。)

コロンビアの辺境で、なお続く紛争と、そこで暮らす人々のお話です。
お読みいただけたら、嬉しく思います。

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<辺境の故郷 コロンビア・アワ民族>


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アワ民族コミュニティー・マグイがあるコロンビア南部山岳地帯


 50年に及ぶ内戦が続くコロンビアでは、一昨年から始まった反政府ゲリラ「コロンビア革命軍」(FARC)と政府の和平交渉の行方が注目されている。そんな同国で近年、特に緊張が高まっていたのが南部のナリーニョ県だ。中でも先住民族アワの自治区マグイがある山間部一帯はエクアドルとの国境が近く、FARCの重要な活動地として2000年以降、軍の激しい攻撃にさらされてきた。
 
 2013年2月、私はマグイを訪れるためにコロンビアへ向かった。2014年4月に日本へ帰国するまで、3回に分け延べ約7カ月を過ごした。

1.証言

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マグイの紛争被害を証言するホセ・チンガルさん


 「紛争は私たちの社会を破壊しました」。
 
 2013年11月、ナリーニョ県の太平洋岸の町トゥマコで政府機関が主催した紛争被害の証言集会があり、マグイから招かれた地域リーダーのホセ・チンガルさんは、そう状況を報告した。辺境に位置し、政府に顧みられることのなかったマグイが本格的に紛争に巻き込まれるようになったのは2000年以降。以来、5つの集落に224家族が暮らすマグイで少なくとも30人以上が死亡、または行方不明となった。一時は軍によるFARCへの攻撃の激化で住民の9割が避難民となった。周辺地域も含めると、この10年間で更に多くの人々が命を落としている。

2.マグイへ

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2012年12月2日の空爆で形の変わった山

 2013年2月。私はホセさんに連れられ、初めてマグイを訪ねることができた。私は以前に2度、2009年と2011年にマグイに入ろうとしたことがある。その時は情勢が緊迫していたことと、何より地元の人の信用を得ることができずに失敗したが、2011年に偶然ホセさんと知り合い、連絡先を交換していた。今回はコロンビアに着いてすぐ、ホセさんの連絡先に電話をした。マグイに行きたいと伝えると、「今は治安が落ち着いているので、一緒にいくなら来ても構わない」とのことだった。私のことを覚えてくれていたことにホッとし、嬉しくなった。

 山の中にあるマグイヘは、麓の町アルタケルから徒歩で4時間かかる。その間に幾つかのアワ民族が暮らす集落が点在する。アルタケルからマグイへ向かうと最初の集落ベガスに着く。そこまでは車がなんとか入れるが、その先は徒歩か馬だ。地元の人たちは山を歩く際の距離を「半日」「1日」と歩く時間で表現する。エクアドル国境までは「2日」だ。

 ホセさんと共に、山奥へ続く一本の道を歩いていく。目の前に広がる、美しい緑に覆われた深い山々に目を見張った。幾つもの沢が山肌を流れている。「どんな作物も良く育つ、豊かな土地だった」。以前に、マグイを去った避難民の老人から聞いた言葉を思い出す。

 アワの人たちは地元で作られるチャピルというサトウキビの蒸留酒を飲みながら山を歩く。アルコール度数45度の強い酒だ。これを飲むと力が出て、早く目的地に着くという。チャピルが好物のホセさんは嬉しそうに私に説明しながら、チャピルが入ったペットボトルのキャップに注いで私に飲ませると、自分もクッと一息に飲み干した。
 
 道をすれ違う人たち同士は、ほとんどが顔見知りだ。週末には買い出しにアルタケルへ向かう多くの人が行き交う。人々はすれ違う度に足を止める。「(アルタケルに)出て行くの?」「そうだよ。そっちは戻ってきたの?」という会話が挨拶代わりだ。少し立ち話をして「また明日」といって別れる。チャピルを持っていれば、そこで何度か杯を交わす。チャピルで力が出る、と言うよりは、長い道のりを楽しい気分で歩くことが力になるのかとも思った。途中で酔いつぶれて歩けなくなっているおじさんを見かけることもままある。
 
 マグイへ向かう道中、残された紛争の跡を示して、ホセさんは説明してくれた。住む人が去った家々、FARCと軍の戦闘の起きた場所、FARCに一家全員が殺害された場所、地雷で人が亡くなった場所――。

 道沿いの山肌に、小さな穴が空いているのが目に入った。1つではない。2、3メートル間隔でいくつも続く。「以前、軍との緊張が高まった時、FARCによって小型の爆弾が埋められていたんだ」とホセさんが話す。爆弾が仕掛けられるのは夜の6時から早朝6時まで。爆弾から伸びる紐が道を這い、紐に足をかけると爆発する仕組みだった。動線でつないで離れた場所から爆発させるものもある。危険なため、夜間の往来はしないよう住民に協力が求められていたが、この爆弾の犠牲になった住民もいる。

 爆弾が仕掛けられなくなったのは、2012年12月2日の軍による大規模な空爆の後からだった。当時、マグイ内の山林にFARCの兵士が野営をしていたという。午前1時頃、いくつかの爆撃機が低い飛行音を谷間に響かせ現れた。FARCの野営地上空に辿り着くと、明け方4時ごろまで激しく爆弾を落とし続けた。この攻撃で25人以上のゲリラ兵士が殺害された。その中に、マグイ周辺を拠点としていたFARC機動部隊マリスカル・スークレの司令官もいた。
 
 空爆の後、ゲリラはマグイを離れ、エクアドル国境近くへと拠点を移している。これにより地雷は仕掛けられなくなった。以降、マグイでのFARCの影響力は低下したとみられる。例えば、それまでマグイが毎年払わされていた「革命税」を2013年は払わずに済んだと聞いた。これまでゲリラにより携帯・カメラ等の通信機器の持ち込みが厳しく制限されていたにも関わらず、写真を撮ることを目的とした私が入ることができたこともその一つだとう。これはとても大きな変化で、空爆以降、一気に携帯電話が集落内に持ち込まれた。今ではほぼ一人一台に近い状態だ。2013年後半、FARCが戻って来てからも、この変化が後戻りすることになっていない。
 


3.マグイの学校

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深い山に囲まれたマグイの学校。先住民族の子どもたちが通う。

 マグイを含めアワ民族が暮らす一帯はコロンビアの辺境にある。長い間、中央から顧みられることがなかった。車が入れる道路がないのは前述したが、マグイに電気が通ったのは3年前だ。他の多くの地域には未だ電気は通っておらず、懐中電灯と石油ランプが夜の屋内を照らしている。
 
 そんなマグイに初めて小学校ができたのは1960年代始めのことだった。地元の人たちの手で山から木を切り出し、校舎を建てた。教師は生徒の父兄が町で適任者を探し、お金を出し合い賃金を払っていたという。

 だが、小学校から上へ進学するには町に出るしかなかった。山間の家からは遠くて通えず、下宿しながらの生活になる。費用がかかることや、親世代に就学の習慣が根付いていないことから、進学しない子どもが多かった。

 また、町では先住民族以外の人々が多数を占め、文化も山とは違う。以前は今よりアワに対する蔑みが強く、言葉や生活習慣の違いをバカにされたという。マグイでは50年前は全員が話していたというアワ語だが、現在は日常的に話す人は一人もいない。背景にあるのが、町に出た時に蔑まれた経験だ。かつてはアワ語を使っていた年配者も今は話すこと嫌う。話すことが「恥ずかしい」と思っているのだという。だから子どもにはスペイン語だけで接するようになった。町の生活に馴染んでいこうとすれば、それはアワの文化を捨てることも意味していた。

 そして現在。マグイには小学校から高校までをカバーする学校がある。「山で暮らすアワの子どもたちが誇りを持って生きていけるよう、先住民族のための学校を作りたい」。そんなホセさんの夢が実を結び、90年代初めに設立された。この地域一帯で唯一、山間にある先住民族のための学校だ。校名を「インガル・アワ」という。アワの言葉で「山に生きる人」を意味する。

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マグイの学校に念願の顕微鏡が届いた。15年学校に勤めるヘンリ先生が、生徒に使い方を教える。

 
 学校をはじめ、地域がどう未来へ向かって進むべきなのかをホセさんは考え続けてきた。アワとして誇りを持って生きられる故郷を作りたい。その夢を地域の内外で語り続けることで協力者を得て、学校の他にも道路などを一つ一つ実現していった。彼の情熱に多くの人が引き寄せられてきた。

 マグイの学校で初代校長を務めたイバン神父もホセさんらとともに積極的に活動してきた一人だ。「ホセさんは常に夢を持ち、将来を見据えた大きな目標がある。私はそれに協力した」。神父はそう話した。


4.アワとして生きる

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地域の集会に参加するホセさん。多くの人から信頼を集める。


 ホセさんのこの情熱はどこから来るのだろう。

 ホセさんは1955年9月1日、ナリーニョ県の高地の町コルドバで生まれた。両親はマレスという先住民族だ。ホセさんの姓のチンガルは、マレス民族やエクアドルの先住民族の人々に見られるという。
 
 コルドバは先住民族と白人の混血であるメスティーソが住民の大半で、マレス民族自身も言葉や習慣など独自の文化をすでに失っていた。当時、自分たちが「先住民族」という意識は薄かったようだ。

 ホセさんは幼い時に両親が別離し、母親に育てられた。コルドバの小学校を卒業し、日本の中学校に当たる学校には入学したものの、すぐに行くのを辞めてしまったという。学校では周りの子どもたちに「チンガル」という姓を先住民族と結びつけられバカにされた。それが悔しくて悔しくてたまらなかったのだ。12歳の時にカケタという近隣の県へ親類を訪ね、農場などで働き始めた。仕事を覚えれば大人も子どもも同一に扱われ、賃金が貰える。彼は学校に興味を失った。

 ホセさんが18歳まで過ごしたカケタ県はアンデス山脈の東側に位置し、幾つもの大河が熱帯雨林地帯を横切る。河の周囲にはインガという先住民族が暮らしていた。そのインガの人々とホセさんは一時期生活を共にした。独自の言語・文化の中で生きるインガから多くを学んだという。数多くの薬草の知識、狩猟の仕方、作物の栽培方法。長い歴史の中で積み上げられた民族の経験が、生活の中に息づいていた。

 ホセさんは18歳でカケタを離れ、好奇心に任せて各地を渡り歩いた。国境を超えてエクアドルでも暮らした。仕事は行く先々で見つけた。大工、農場、パン屋。どんな仕事も楽しくて精一杯取り組み、気が付くと色々なことができるようになっていた。友人もあちこちにできた。

 生まれ故郷のコルドバを離れてからの生活で「人はどう生きるのかを学んだ」とホセさんは話す。「地域によって違いがある。そこで起こる問題にも違いがあるということも身体で感じた」。この経験が地域のリーダーとして活動する今に通じている。

 20代半ばになって、ホセさんは母親が暮らすコルドバに戻った。大工の仕事で近隣の高地の町クンバルへ行った際、夫人のロサさんと出会った。ロサさんの両親はクンバル出身だが、1950年代に住みやすい温暖な土地を求めてマグイに入植していた。ロサさんも両親と共に幼くしてマグイへ移住したが、クンバルに残しておいた家に戻っていた時にホセさんと知り合ったのだそうだ。

 ロサさんと結婚したホセさんはマグイで暮らし始めた。土地はロサさんの父親から土地を譲ってもらった。当時30歳。農業を営む暮らしは未知のこと。何もわからなかったが、周りに暮らすアワの人々は作物の種や鶏を分けてくれた。ホセさんは、ここで子を育て、根を張り始めた。山での暮らしを懸命に覚えていくホセさんを、アワの人々は受け入れてくれた。「今でも感謝している。恩返しをしたいと思って生きている」とホセさんは言う。「地域の先頭に立って仕事をしていくことに迷いはない。私はアワではないけれど、今はアワとして生きている」。


5.紛争

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仲間が地雷の犠牲となった場所に立つホセさん。

 平穏だったこの地域は、どのように紛争に巻き込まれていったのか。マグイに反政府ゲリラが本格的に入って来たのは90年代中頃。FARC(コロンビア革命軍)とは別のELN(国民解放軍)だった。80年代に、別のゲリラM-19が来てはいたが、通過するのみだったと聞いた。ELN が来た時期については人によって記憶に違いがある。マグイが先住民族自治区として登記された94年という人もいれば、それ以前だという人もいる。だが、だいたいこの前後であったことは確かなようだ。人々の話を総合すると、概ね次のようだった。

 ある日、ELNの主要なメンバーがマグイにやってきた。マグイ住民の代表による、コミュニティーの意思決定機関である評議会と接触して「私たちはコミュニティーと協力して地域のために働いていきたい」と申し入れた。ELNを受け入れるかどうか話し合いが行われ、受け入れることになった。

 彼らは武器を持っていたが、地域で戦闘が起きることはなかったという。政府軍が山に入ってくれば、ELNの兵士たちは軍が去るまで別の場所へ移って衝突を避けた。ELNは近隣の資産家から道具と資金を提供させ、地域の活動に回していた。ある時はその資金で牛を買い集め、共同体の住民による共同牧畜を始めた。牛を売ったお金は各家庭へ均等に分配された。地域の指導者や教師、外部からも弁護士や大学教員などを募って政治をテーマに勉強会を開いたこともあったという。

 だが、2000年になると、FARCが地域に入ってきた。ELNとの戦闘も起きた。マグイはFARCの勢力圏に置かれたが、一帯で見ればFARCとELNがモザイク状に場所を分けあう形となっていた。

 FARCは独自の「山の法」を敷いていった。通信機器の持ち込みを禁止したのもこれによる。それでもまだ、住民に対する縛りは緩やかだったようだ。だが、2002年、対ゲリラ強硬派のウリベが大統領に就任すると、ゲリラへの攻撃は激しさを増した。住民の話を聞いていると、この時期からFARCが大きく変質した様に感じる。軍と繋がりのある、あるいは繋がっていると疑われた人を容赦なく殺していった。ゲリラに反する行動を取る人に対しても、見せしめ的に本人だけでなく家族までも殺害する場面があった。

 一方の政府軍は、山で暮らす人々をゲリラ、またはゲリラの協力者と決めつけていた節がある。ヘリコプターがアワ民族の地域に低空飛行で入ってくると、無差別に民家を銃撃していった。屋根に銃痕の残る家がやたらとあるのはそのせいだ。2004年にはマグイの小学校が軍の空爆を受けて大破した。早朝で児童は登校前だったため、死傷者が出なかったのは幸いだった。軍が住民不在の家へ上がり込み、無断で物を持ち去り、家畜を食ったという報告も少なくない。激しい攻撃を恐れて町へ逃れた人々の中には、避難民として名乗り出ることを嫌った人もいる。山から来たゲリラの協力者と疑われ迫害される危険があったからだ。

 他にも人々を弾圧した組織がある。右派民兵だ。現在、ウリベ前大統領も含め、当時の政府関係者との癒着が告発されている。政府は民兵を使ってゲリラに攻撃を仕掛け、ゲリラの協力者と思われる一般の人々を迫害させた。実際、農村を歩いていると、軍と行動を共にしていた、頭髪の長い、髭を生やした武装グループの証言を耳にする。軍の兵士は全員が坊主頭で髭を蓄えることはない。人々と話していると、軍、警察と民兵が同一視されているのが分かった。

 アルタケルで商店を営むある夫妻は、娘がELNに入隊した。本人の意思かどうかはわからない。軍は夫妻をELN協力者と見なし、町から去るよう圧力をかけ始めた。気にしないように努めていると、ある日、夫妻が営む商店に民兵がゲリラ兵士を連れてきて、店の前で銃殺した。更に数日後、ちょうど店を閉めて少し離れた畑に行っている間に、やってきた民兵が店に火を着けた。店に隣接する自宅にも火は及んだ。この町には警察施設があるが、民兵の行動を黙殺していたという。夫妻はその後、エクアドルへ亡命。3年間、避難民として生活したが、日雇い以外に仕事がなく、生活に疲れ、状況が落ち着きを見せたアルタケルへ戻ってきた。

 2005年に息子を失ったある母親にも話を聞いた。当時15歳だった彼女の息子が山で軍の兵士と鉢合わせた。息子は恐怖から逃げ出すと、後ろから銃撃され倒れた。一緒にいた友人が背負って母親のもとまで連れてきたが、間もなく息を引き取った。逃げ出した理由について「身分証を持っていなかったため、軍に自分の身分を証明できないことを恐れたのではないか」と母親は言う。他にも、ただ山を歩いていただけで軍から発砲されたという人の話も聞いた。

 マグイでは2006年に紛争がピークを迎えた。FARCが活動するマグイとその周辺に対し、10日間にわたって軍が空爆した。この時、軍が兵士を山に送り込もうとする直前に、FARCによって全ての道に地雷が埋められたという。その前日、FARCは住民に逃げるよう警告を出したという証言もあり。こういった緊迫する状況の中で、住民の9割以上が避難民となって山を下りた。逃げられなかった人の中には、家族に病人を抱えていたり、外の社会で生活することへの恐れから集落に残った人がいた。

 山を下りた人々も、持っていったのは必要最低限のものだけだった。町での生活に馴染めず、数ヶ月で山に戻った人もいれば、そのまま未だに戻っていない人もいる。集落から離れていた間、人々は貴重な財産である作物の種や家畜を失った。所有する畑に地雷を撒かれ、入ることができなくなった人もいる。この経験が、その後は戦闘があっても外部へ出たがらない理由となっている。


6.和平交渉の今

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避難民生活を送るマグイ出身の老夫婦

 現在、コロンビアでは反政府ゲリラFARCと政府の和平交渉がキューバを舞台に続けられている。FARCは5つの項目を提示し、その3つでこれまでに合意が成立した。私の知人は、これまで決裂してきた和平交渉を思い出しながら、期待を交えつつも少し斜に構えて眺めている。ほとんどの人は、この延びきった紛争にうんざりしている。
 
 私が先住民族コミュニティーで出会った17歳の少女は、かつてELNの兵士だった。ゲリラ兵士に恋をし、彼を追って入隊した。後に妊娠がわかり除隊。出会った時は赤ちゃんを抱きながら学校に通う高校生だった。

 その自宅を訪ねたことがある。赤ちゃんにおっぱいをあげながら彼女はこう言った。「日本には戦争があるの?コロンビアではコロンビア人同士が殺し合ってるのよ。馬鹿なことだと思う」。彼女のボーイフレンドはその後、ゲリラを抜けエクアドルへ逃げていったという。今は何をしているのかわからない。

 この戦争は誰のためのものなのか。誰かを幸せにしたのか。
 
 2013年11月6日、FARCが政治参加していくことで政府との間で合意した。しかし、その同じ日、ナリーニョ県内4ヶ所でFARCは警察施設を襲撃している。更に、私がマグイに滞在していた2014年1月から2月にかけ、マグイでは軍と、2013年後半に地域に戻ったFARCとの間で衝突が続いていた。避難をする人々も一部に出たし、学校を始められないという事態にもなった。テレビから伝わる和平交渉のニュースがどこかと置い場所の出来事に感じられた。
 
 今年6月には、もう一つの反政府ゲリラELNが政府との和平交渉をスタートさせるという報道があった。しかし、ゲリラが武器を置いたとして、それが平和につながるのだろうか。新自由主義政策を進める社会は今もなお、弱い立場の人々を置き去りに「発展」を掲げて邁進している。そもそもの紛争の原因であった構造化された社会格差は解消されることなく、年々拡大し続けている。解体されたといわれる右派民兵は形を変えて各地でその勢力を伸ばしている。

 また、現在の紛争地には多くの資源が眠っているといわれる。ゲリラがいることで開発が進んでいない多くの地域ある。和平は紛争地帯の資源開発とセットであるという話も聞く。紛争地で暮らす、誰よりも平和を願う人々の生活のその後は、保証されていない。大きな声で語られる「経済発展」の前に、人々の生活は飲み込まれていくのか、そう心配をする人々がいる。

 「国もゲリラもいらない。我々は自分たちで将来を築いていく」。ある先住民族指導者はそう話した。

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元反政府ゲリラ・国民解放軍兵士の少女


7.故郷


 今回、私がマグイを訪ねたのはなぜか。私は2007年、エクアドルで避難民として生活するアワの人々に出会った。彼らの多くがマグイ出身者だった。

 初めは「避難民」「先住民族」としての彼らを見ようとしていた。それは、私自身が持ち込み、相手に押し付けたイメージでしかなかった。その後、私は毎年のように彼らの元を訪ねるようになった。その度に、これまで知らなかった一人ひとりの思い、経験に触れた。私と何ら変わらない一人の人間としての姿が胸に迫ってきた。

 彼らは自分たちの故郷のことを沢山聞かせてくれた。これまでどう生きてきたか。そこがどんなに住み良い土地だったか。温暖な気候、豊かな水と緑、良質の土。その環境で、自分の土地に好きな作物を作って生きる喜びを活き活きと語っていた。

 山の生活、仕事、食べ物、天気、日々のこと、彼らの語る言葉を同じように自分も使って語り合いたいと強く思った。いつしか、マグイを訪ねることが私にとっての生きる力になっていた。実際に訪ねると、その言葉の通り、美しい山々に抱かれ人々が生活していた。

 ホセさんの後を歩いて初めてマグイに向かった日。地元の人なら4時間で着く道のりを、私はすでに7時間歩いていた。「ダイスケ、あと少しで着くぞ!頑張れ、チャピルが足りないな!」。ホセさんは全く疲れていないようだ。最後に延々と続く急斜面を登り切ると、立っていられないくらい足がガクガクした。山歩きに慣れていない上に、ちびりちびりと飲んでいたチャピルがすっかりまわり出していた。暑さと酔いで喉がカラカラだった。

 沢のそばで少し休んだ。ホセさんが沢に顔を突っ込み、水をがぶりと飲んだ。とても旨そうだった。私も顔を突っ込み水を飲んだ。なんて冷たい水だろう。めちゃくちゃ旨かった。そのまま頭を水の中に沈めた。

 顔を上げると、目の前がパッと開けた気がした。山々に聞いたことのない鳥の鳴き声が響いていた。深い木々の隙間から、夕日に染まりつつある赤い空が覗いていた。やっとマグイにこれたんだ。疲れている場合じゃない。私が歩いてきたこの道を、これまで出会ってきた避難民の人たちは毎日歩いていたんだ。この水を飲み、空気を吸って生きていたんだ。精一杯感じなきゃいけない。

 「もう一杯飲め!」。ホセさんが勧めるチャピルを一息にのみ、ふらつく足で、再び歩き出した。そんな私を楽しそうにホセさんは見つめていた。

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