コロンビア日記14

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3月15日、ナリーニョ県のバルバコア市プリマべーラで、避難民と複数の人権団体、市・県の担当者らによる集会が開かれた。プリマべーラは避難生活を送る先住民族アワの人たちによって作られた新しい集落だ。

第一回のこの日は、住民からの現状報告がメインとなった。今後継続して集会を開いていく中で、昨年、政府が制定した内戦被害者救済法をどう履行させていくかが今後話し合われていく。と同時に、地域に放置されてきた様々な問題点を訴える場にもなる。

地域を歩いていると、身内を失った人、財産を失った人、本当に沢山の「被害者」に出会う。これまでもこうした人々に対する保証はあったようだが、僕が話を聞いた多くの人たちは、その手続きの複雑さとお金がないことから、泣き寝入りを余儀なくされてきた。保証を得るためには、個人で手続きを進めねばならず、役所のある場所へ何度も通う交通費が賄えない。また、そういった制度があることすら知らずにいる人もいる。

僕自身、勉強不足で新しくできた法律がどう履行されるのかまだよく分からない。
しかし、人権団体などと知り合う機会があるので、被害を受けた人たちを結び付けることはできるんじゃないかと思う。
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コロンビア日記12

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家族を町に避難させているホセさんは、学校の倉庫で寝泊まりしながら、普段は学校の雑務にあたっている。僕も滞在中は倉庫に泊めてもらっていた。

夜は長いので、ドン・パンチョから買ったチャピルを飲みながら過ごした。

ホセさんはアワ民族じゃない。
30歳の時に奥さんとこの地に移住してきた。以前は苦労の多い人生だった。各地を転々としてきた。何も持たないホセさんに、アワの人たちは作物の種や鶏を分けてくれた。その恩を今も持ち続けているという。

土地を開き、少しずつ築いた生活の中で子を育て、地に根付こうと努めてきた。
彼は「俺はもうアワなんだ。」と話す。ホセさんからは、アワの人々と、この土地への愛情が満ち溢れている。多くの人が、マグイを去っていった。どうすればまた人々が戻ってこれるのかをいつも考えている。

彼のもとに幾度か民兵が来た。家族の暮らす家に銃弾が撃ち込まれたこともある。地域の自立を目指すことへの圧力だ。それでもマグイのために働いていくことに「迷いはない」と言う。なんて強いんだろうと思った。

コロンビア日記11

2月25日PM1時過ぎ、学校から1キロほどの所から大きな爆発音と煙が上がる。爆発した地雷の音だった。腹に響く音に膝が震えた。

3時間後、軍のヘリコプターが2機、低空でくる。1機は上空を旋回し、もう1機が爆発のあった場所に降下した。

この地域に展開する軍の兵士が地雷を踏んだらしい。数人運ばれていくのを見たという話があるが正確なことは分からない。

学校から望む丘の上には、白旗が一本立てられている。

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爆発音の後、土煙が立ち上がった。

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3時間後に来た軍のヘリコプター。

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丘の上に立てられた白旗。

コロンビア日記10

この学校には125人の生徒が所属している。
中・高等学校にあたるが、数は少ないが小学生も受け入れている。その中には、20歳を超えた小学生や、子連れの生徒がいる。

家庭の仕事や、紛争など様々な理由で学校に通えなかった人が多くいる中で、誰に対しても門戸を開いている。

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寮で生活する生徒

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19歳のルビーは現在中学1年生。3歳になる娘と寮で生活する。

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小学校低学年のクラス。

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子どもと一緒に授業を受ける。

コロンビア日記9

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マグイで指導者的立場に立つホセさん。
以前はこの地域に中・高等学校がなく、子どもたちは距離のある町の学校へ行っていた。しかし、町の学校には先住民族よりも混血の人々がおおい。

町に行くと、先住民族に対する差別的な風潮があった。現在、マグイやその周辺の地域ではアワ民族の言語を話す人が急速に減っている。アワの言葉が町では嘲笑の対象になっていたため、90年代位から日常的に使っていた人々も言葉を恥と思い、家庭内でも使われ亡くなっていったという。それは、自身の民族への自信喪失へとつながっていく。

ホセさんは、アワ民族のための学校が必要だと考えた。そこで民族・人としての誇りを取り戻すことが地域に強いつながりを作ることになる。それは時間が掛るかもしれないかもしれないが、武装勢力に対して主権を主張し、暴力から身を守ることに繋がる。

お金のためにゲリラや右派民兵に加担する子供たちがいる。ホセさんは「お金よりも重要なことがある。それは教育だ。ゲリラに入ったが、怪我をしたり妊娠して戻ってくる人がいる。だが何年もゲリラとして生活してきた人間は、戻ってきても何もできない。お金を稼ぐことができないからまたゲリラに戻っていく。」と話す。

この学校では、アワ語とアワの世界観を子どもたちに教えている。

コロンビア日記8

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山道を歩いて8時間、アワ民族の居住地の1つマグイにつく。

大きく見えるのは、中学校。この地域にある唯一の中学校で、2,3日歩いてくる生徒もいる。遠方の生徒は、日曜の夕方に来て寮に寝泊まりし、木曜の夕方に自宅に戻る。

山の斜面に家々が点在する。「これがアワの形なんだ」と地元の人はそう話す。

気候は温暖で雨が豊富。夜は気温が下がり過ごしやすい。
マグイに暮らし続けてきたフベナルさんは、「マグイはどんな作物もよく育つ、いいところだった。」そう話していた。彼はここで、家畜を飼い、トウモロコシ、豆、ユカ芋、サトウキビなどを作り生活していた。

僕が知り合った多くの人も、この一帯の出身者だった。

コロンビア日記7

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ドン・パンチョの自宅に伺うと、寝室の屋根に銃痕があった。
2007年に、軍のヘリコプターによって撃ち込まれたそうだ。
朝9時で、彼は自宅近くのサトウキビ畑で仕事をしていたため、無事で済んだ。

2006年から07にかけて、この地域でかなり大規模なゲリラ掃討作戦が展開されたという。ゲリラと住民の区別なく、こうした攻撃が繰り返されていた。

エクアドルで知り合った難民の多くが07年にコロンビアから渡ってきていた。「10日間続いた空爆から逃げてきた」という話を聞いたことがあった。

昨年末から度々、大人数の兵士がこの山中に入ってくのが目撃されている。政府・ゲリラ間の和平交渉が続けられているが、その間も紛争は続いている。「和平交渉って言っても、その間に爆弾が落ちて死んだら、やってないのと同じだろ。」地元の人はそう話す。

コロンビア日記6

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地元の方に案内されて山道を歩いているとドン・パンチョと呼ばれ親しまれている男性と出会った。
彼はサトウキビを栽培し、そこから「チャピル」という焼酎を作り販売している。自身もチャピルが大好きで、彼に誘われるままその場でしばし酒盛りとなった。

コロンビア日記5

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ナリーニョ県の山中を流れる川に一本の橋がかかる。

これまでに、何人もの人たちがゲリラに殺害されこの橋に遺体が晒されてきたという。多くは軍や右派民兵に協力した住民。政府はゲリラの居場所を密告したものに報奨金を出している。
生活に窮してゲリラに入る地元の人もいる。

この山中に、僕が出会った人たちの故郷である、先住民族の居住区が点在している。

コロンビア日記4

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右側の女の子ビビアンとも隣国のエクアドルで出会った。2009年のこと。
当時彼女は11歳で小生意気な感じの少しませた女の子だった。
2007年に紛争によって故郷を追われた。親や兄弟は避難先を故郷に近い町を選んだが、仕事のためにエクアドルへと渡ったおばあさんの後をくっついてきていた。「この子はあたしが好きなのよ」と話すおばあさんの横っちょでにっこり笑っていた。

久々に会ったのはコロンビア南部のある集落。避難民によって作られた新しい場所だ。今はおばあさんも、ビビアンの親である娘さんたちと共に暮らしている。

14歳になったビビアンが、とても大人っぽくなっていて感心した。もう子供じゃないんだねぇ。

コロンビア日記3

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念願のマイ・マチェテとゴム長。
山歩きには必需品ですので。というよりも、前からちょっと憧れてたんです。ぬかるむ道をジャブジャブ歩き、目の前の草木をバッサバッサと切り倒して道を開くその姿に。それに、仕事のお手伝いもできますし。
だたこれを持ってどう長距離移動しようか思案中。検問の時に説明がしがたく・・・ 

コロンビア日記2

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コロンビア南部・ナリーニョ県に暮らすフベナルさん(左)と夫人のラウラさん。
2人は、僕が避難民の取材をするきっかけとなった友人である男性の両親だ。2008年に、エクアドルで難民生活を送る友人を訪ねた時に、息子に会いに訪れた2人と出会った。以来お付き合いが続いている。

今回も2人が暮らす町を訪ねた。

フベナルさんはパスト民族。ラウラさんと結婚後、マグイというアワ民族の集落に移住し後に地域の指導者として活躍した。
しかし、2002年に紛争が激化し現在の町に移住した。移住する前後よりパーキンソン病を発症。周囲の人は「銃声の恐怖のせいだ」と話す。

フベナルさんは現在89歳、ラウラさんは88歳。
暮らし慣れたマグイでの生活を聞くと、喜んで話をしてくれる。

一緒に写真撮りましょうと言うと、初め照れていたラウラさんがギュッとフベナルさんの肩を抱いいて微笑んだ。僕がびっくりしてしまった。

コロンビア日記1

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エクアドル国境近くの高地に住むセルビオさん一家を一年半ぶりに訪ねた。彼らと初めて会ったのは2007年。エクアドルで難民として、農家に間借りして暮らしていた。今はコロンビアに戻ったものの、避難民として暮らしている。
写真でもとります?というと、みんながとっておきの服に着替えて、パッとポーズを決めてくれた。 

出会った当時2歳だった末っ子のジョニーは、もう小学生になっていた。

日記3.7

  • Day:2013.03.08 11:22
  • Cat:日記
しばらくナリーニョ県にいて、所用のために今日カリ市に戻ってきた。
全国でコーヒー農家の道路封鎖が続いていたのでバスが走っていなくて、350キロの道のりを2日かかりでたどり着いた。

車が走れないために、バイクを持っている人が旅行者を拾って走っている。僕も細かく乗り継いできた。ぼったくられたりしつつ。

途中のカウカでは、懐かしい人たちが元気に道路を封鎖していた。

さて週明けの13日にはナリーニョに戻らないといけない。
無事たどり着けるだろうか。
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