日記 9.21

先週末くらいから、各地で稲刈りが始まった。20日過ぎくらいかなーって話していた農家さんも、台風が近づいているせいもあって、前倒しして始めていた。天候勝負、農繁期の忙しさにすこしだけれど付き合わせていただいている。

昨日は中学校の同級生の結婚式。もう、何年もあってない友人とも再会。奄美に越した友人も帰省して、式の外でもたらたらと飲んだ食ったり丸々2日?積もる話もできたよう。ちょっと腹がでてしまったかなー 明日から東京で出稼ぎ労働、すぐにひっこむといいかな。

週末にまた茨城へ戻る。まだ稲刈りの終わらないところもあり、大きな被害なく、台風が過ぎ去ることを祈る。

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土地の守り神

「あの山が、ここら辺を守ってくれるっていうんだよねぇ。」

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茨城県城里町白山 9/6

帰省

今日エクアドルへ電話をした。亡くなったルイス・フェリペさんの息子ルイスへ。

電話の声は前と変わらず元気そうだった。「これから朝飯だよ」って。
日本との時差は14時間。向うはこれから一日が始まる。

父親のルイスさんの遺体は、彼の奥さん、息子のルイスたちの手によって、コロンビアに暮らす家族のもとへ運ばれたそうだ。お姉さんとお兄さんが暮らすリカウルテにお墓がたてられた。

以前、彼は言っていた。「おれは二度とコロンビアには帰らない。」 彼はそう決意して、新しい居場所をエクアドルに少しずつ築いていった。

彼と初めて会ったのは、2007年の12月。もうすぐクリスマスという時期だった。出会った数日後、仲間が暮らすリタ近くの、小さな集落へお祭りに行った。そこで彼の姉夫婦を紹介してもらった。その日は、そのままルイスさん、彼の義兄マヌエルさん、地元の人たちと朝まで飲むことになった。そのとき彼は周りのエクアドル人たちに、コロンビアがどんなにいいかを話していた。辛いことがあったコロンビアだけど、やっぱり彼にとってそこは大切な故郷だったんだ。「まさか一緒に酒を飲むなんて思ってもみなかったな」そう言ってくれたことが、ドキドキしながら彼らのもとを訪ねた僕には、とても温かかった。

そうか、ルイスさんはコロンビアに帰ったんだ。

あと3か月でクリスマスかぁ。
声を聞いたら無性に会いたくなった。


田んぼの水抜き (福島県矢祭町)

  • Day:2011.09.12 20:40
  • Cat:日記
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茨城県北部の大子町から国道118線で県境を超えると福島県矢祭町に入る。 
黄色に色づく稲穂が広がる。今年は原発事故があり、土壌検査を待ったため、例年に比べ田植えが遅れた。その影響で、収穫も1~2週間程度遅れているという。

作物を作るのに一番大切なのは「愛情」と話す。
色々な思いを胸にしまいながら、稲刈りに向けて田んぼの水を抜く。



矢祭町の空間放射線量は、0.11マイクロシーベルト/h(9/12矢祭町役場前 福島県HP)

友人の死

先月末、エクアドルに暮らす友人が亡くなったとの知らせが届いた。

彼の名はルイス・フェリペ・タピアさん。2007年にエクアドルで知り合い、昨年まで毎年彼の元を訪ねていた。知らせは、彼の息子、ルイス(父親と同じ名前。)からだった。 facebookを通じてよこされたメッセージには「ダイスケ元気か?僕たちは今、少しよくないんだ。父が殺されてしまった。みんな悲しみに包まれている。」と短いものだった。

彼が死んでしまった。しかも殺された。その意味がよくわからなかった。
すぐに「何があったの?」と返したが、その後、彼からの返信はない。もし事件だったらと思い、ネットで検索をかけると、エクアドルの新聞に写真つきの記事が載っていた。写真には、ベンチに横たわり、シーツをかけられた人物が写っていた。顔は見えない。ベンチの下には、黒く乾いた血痕があった。記事を読んでいくと、ルイスさんの名前があり、彼が現在住んでいるリタという町で、祭りのさなかに銃で撃たれたとあった。もう一枚の写真には、ルイスさんのお義兄さんが、大きな棺を何人かで運んでいた。

その画面を見ながら、息が苦しくなった。と同時に、一昨年ルイスさんたちと行った、リタの祭りを思い出した。

ルイスさんはコロンビアの南部、ナリーニョ県で生まれ育った。若いときから家具職人として働き始め腕を磨いてきた。 彼が隣国のエクアドルへ家族とともに移住したのは2002年。紛争の激化するナリーニョから逃れ、難民となった。

僕が出会った当時、彼はエクアドルに来て5年が過ぎていた。首都近郊の町で、家具工場を持ち、家族と暮らし働いていた。彼は家族を支える父親であると同時に、先住民族難民グループリーダーとして働き始めていた。

エクアドル北部にリタという山間の小さな町がある。その町を中心とした周辺の集落に、ルイスさんと同郷の、難民となった人たちが暮らしている。彼らの大部分が先住民族アワだ。リタの風土が、故郷と似ているという理由で、知人を頼りに集まってきた。

僕は、コロンビア先住民族をテーマに各地を歩いていた。ちょうどコロンビアの滞在ビザが切れ、延長のためにエクアドルへ来ていた。そこで、先住民族難民がいるとの情報があり、ルイスさんたちと出会った。

リタは、国道が峠を越え、ゆるい下り坂に小さな雑貨屋や食堂が並んでいる。うっそうとした木々に囲まれ、蒸し暑く、生暖かい風が吹く。その食堂のひとつで、真っ赤なシャツを着た、角刈りのルイスさんと対面した。話を聞きたいという僕に、快く時間をとってくれ、家族の暮らす家へ招待してくれた。東洋人への好奇心もあったのかもしれない。そこから彼との交流が始まった。

難民である彼の仲間たちは、生活基盤がない。多くが部屋を間借りし、農場での日雇い労働で生活する。

ルイスさんはそんな仲間たちの中心に立ち、未来を切り開こうと、彼ら自身の組織を立ち上げた。 それが2009年に訪ねたときだった。 組織で収益を得て、各家庭に分配する。ゆくゆくは大きな土地を買い、コロンビアで暮らしていたときのようにコミュニティーを作りたい。そう大きな夢を語った。組織つくりは、その第一歩だった。

2010年に彼を訪ねると、ゆっくりとだが活動の幅を広げていた。何度か収益を得るためのプロジェクトを立ち上げては失敗を繰り返したという。そのときは養鶏を始めようとしていた。今度こそはと、専門家を呼び講義を受けながら、焦らずじっくり準備を進めていた。と同時に、自分たちでレストランを持ち、そこで飼育した鶏料理を出したらどうかと話し合っていた。

長い人は、エクアドルへきて10年以上が過ぎていた。変わらぬ生活に疲れが出ている人もいる。何とか活路を見出そうとする様子が伝わってきた。そのときルイスさんは「あと一年が勝負かな」とも口にしていた。彼は、前年より、家族の暮らす町を離れ、単身で仲間の暮らすリタに移ってきていた。 借りた土地に、家具用の木材で3畳ほどの小屋を立てた。電気は引いたが、水、トイレは近所にすむ仲間の家に借りに行く。 その生活に疲れ始めていた。「あと一年したら、俺は旅に出る!どこか知らないところへ行くぞ!」そう冗談めかして話していた。


あの小屋に、数週間とめてもらっていた。もしかすると嫌かな、と思いつつ、ずうずうしくも彼のベットと壁の隙間に寝袋をしいて。ひょうきんな彼が一度漏らした。「俺はずっと一人だった。仕事も一人、だから、今組織のリーダーとしてどうすればいいのか自身がないんだ。」
また、彼は先住民族である自分に葛藤を持っていた。いろいろな思いを持ちながら、前に進もうとしていた。

去年の7月、「また来年来るから」といって日本に帰ってきた。彼の部屋を出るときに、木彫りのキリストの像を、ワザとらしいくらい大袈裟に、ゴシゴシ磨いて「持ってけ」と渡された。ちょっと荷物になるなぁと思いながら、バックにしまった。それが最後になってしまった。

彼のことは、これからもずっと追いかけようと思っていた。今年は6月に訪ねるつもりが、震災があり行くことを辞めた。行っていれば会えた。

なぜ死んでしまったのか。理由はまだわからない。息子のルイスの電話番号は持っているが、電話をして何を話せばいいのかわからない。

ただ、ネットの記事に、 「ルイス・フェリペさんはリタにレストランを経営していた。」とあった。
ああ、レストランをオープンさせたんだ。と、少し嬉しくなった。でも、何でこんなとこで知らなきゃいけないんだ、と苦しくなった。
おれは、彼に会って、彼らの仲間に会って、「なかなかこれなくてごめんなさい」とか言って、これまでの経緯を聞きたかった。  

お祭りの日の夜、酔っ払ってたんだろうなぁ。楽しく飲んでたのかなぁ。マヌエルさんと飲んでたのかな。怖かったろうな。痛くなかったかな。コロンビアの親父さんたちはもう知ってるのかな。
なんでこんなに遠いんだろう。すぐに行けないよ。みんなどうしているんだろう。誰でもいいから話がしたい。










 


 

日記 8.28 鉾田復興祭

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日記 8.21

  • Day:2011.09.01 12:11
  • Cat:茨城
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茨城県鉾田市
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