終わらない紛争の中で  コロンビア・コーヒーを作る友 (コロンビア・ナサ民族)

2014年7月に、先住民族の10年NEWSに寄稿した、コーヒーを作るナサ民族の友人の話です。

2013年、彼が暮らすコロンビア南部カウカ県を訪ねました。
彼は、とっても美味しい有機コーヒーの生産者でもあります。

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<終わらない紛争の中で  コロンビア・コーヒーを作る友>

南米コロンビアでは、6月の大統領選挙を終え、2012年より続く反政府ゲリラとの和平交渉に注目が集まる。だがコロンビアの農村は、今も50年に及ぶ国内紛争の渦中にある。

日本人にも馴染み深いコロンビア・コーヒーが生まれるカウカ県。その肥沃な土地のこれまでの歴史、そこで生活するナサ民族の様子を報告したい。


1. コロンビアと甘いコーヒー

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家に招かれると一杯のコーヒーとパンで一休みする。


 コロンビアの農村を歩いていると、しばしば家に招かれることがある。

 「どこから来たんだい? ちょっと休んでいきなさい」。

 家の人に言われるままにお邪魔すると、一杯のコーヒーと、パンなど、ちょっとした食べ物が出てくる。コーヒーは、大きな鍋にドンと作り置かれ、お玉でコップにすくってくれる。たっぷりの砂糖が入ってとても甘い。日本では砂糖もミルクも入れずに飲んでいたのに、いつしかコーヒーは甘くなければ物足りなくなっていた。

 どんなに急いでいても、冗談交じりの他愛ない会話を家人と交わしつつ、出されたコーヒーを飲み干し、その場を楽しむのが礼儀だ。それで次の約束に少し遅れても、誰も咎める人はいない。もしかすると、都会はちょっと違うかもしれないが、このような時間に対する大らかさも含めて、コロンビアの生活に根付くコーヒー文化の姿といえるのじゃないだろうか。
 
 コロンビアの主産業であるコーヒーは生産高世界第4位を誇り(2012年Food and Agriculture Organization)、対日輸出で世界3位(2013年財務省)。コーヒー好きの日本人にとっても馴染みの深い存在だ。


2. コーヒー農家カルロス

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自慢のコーヒ畑を見せるカルロス


 私の友人に無農薬コーヒーを作るカルロスというナサ民族の男性がいる。年齢は45歳。コロンビア南部カウカ県のアンデス山中に、妻のベティー、息子と娘の4人で、ハンバロという村に暮らしている。少し神経質で、初めは取っ付きにくい印象もあったのだけれど、一回り年下の気の強い妻の尻に喜んで敷かれている、実は気のいい男だ。以前は役場で事務職についていたが、今は辞め、祖父の代から続くコーヒー作りを継いでいる。

 私とカルロスが出会ったのは2006年12月。クリスマスが過ぎ、新しい年を迎えようとする時だった。

 首都ボゴタの宿で見かけたある記事に、「ナサ民族の自治区ハンバロ」が取り上げられていたのを目にし、私はハンバロに向かっていた。ハンバロには宿がなかった。そんなことも知らずに来た私に、移動の車中で一緒になったカルロスが「部屋が空いてるから、家に泊まりなさい」と言ってくれた。それから3カ月あまりをそこで過ごした。

 何度かカルロスのコーヒー畑に同行したことがある。収穫前の畑の除草が主だった。早朝集まった近所の親類と農具を持って畑のある山へ入っていく。急な斜面にびっしりとコーヒーの木が並んでいた。有機コーヒーとして国外にも出荷されており、除草剤はもちろん使っていない。斜面にしがみつくようにして、伸びた草をマチェテ(長鉈)で刈り取っていく。徐々に昇る太陽が焼けるように暑かった。その後も何度か仕事を手伝った。これまでただ飲むだけだったコーヒーの味が変わった気がした。


3. 有機コーヒーと先住民族

 カウカ県のアンデスに位置する標高1500mから2100mの高地は、コーヒー栽培の好条件である、昼夜の気温差、火山灰を含む肥沃な土壌と豊富な雨量が相まって、良質なコーヒーの産地として知られている。ハンバロもこの辺りにある。
 
 カルロスが暮らすハンバロ村を含むカウカ県北部には「フォンド・パエス」という、ナサ民族が中心となるコーヒー生産者協会があり550家族あまりが加盟している。そこで作られた有機コーヒーは、国内だけではなく、フランス、米国へも出荷されている。

 1992年に発足したこの協会のバックアップをするのが、「コロンビア・ヌエストラ」というバジェ大学の関係者で作られた農村支援を進めるNGOだ。先住民族に寄り添い活動する彼らは、昔からの農法である有機栽培の価値を生産者に伝え、現金収入源の限られた山間部に新たな収入源を確保し、地域の経済的な自立を促す。また、コーヒー生産は、長い紛争と抑圧の歴史の中で失った民族の知恵や誇りを再獲得することにも繋がっている。

4. 歴史

 カウカは豊かな土地を持つ。この豊かな土地に長い間暮らしてきた人々は家族単位の小規模農業を営み、自給自足的な生活を送ってきた。この豊かな土地を求めて外部から入ってきた資本家が、先住民族から土地を奪い、隷属的に扱ってきた歴史がある。
 
 現在も続く50年に及ぶ国内紛争は、こうした社会の不平等に端を発する。
 
 さらに遡ると、コロンビア独立以来内包し続けてきた、保守党と自由党の2大政党間による凄惨な暴力の歴史がある。山深い地に位置するハンバロも、その例外ではなかったという。1948年に首都で起きたボゴタソ(ボゴタ暴動)は、保守党による自由党派市民に対するテロが頻発している中、自由党の有力政治家ホルヘ・ガイタンが暗殺されたことが引き金となり、自由党派市民の怒りが爆発した。この暴力は瞬く間に全国へ波及し、以降、およそ10年の間に全国で20万人以上が犠牲となる「ラ・ビオレンシア(暴力の時代)」へと突入する。
 
 ハンバロでも住民が自由党と保守党に割れ、マチェテを手に殺しあったと聞いた。私はこの事実を全く知らなかった。静かで温かい人々が暮らすこの地に、刻み込まれた血の歴史があった。
 
 そして、この暴力の時代が終わる頃、地域に資本家が入り込んできた。彼らは力で土地を巻き上げていった。逆らう人々は容赦なく暴力が振るわれ数多くの犠牲者が出た。文字を理解しない人に対して、説明なしに土地の譲渡契約書にサインをさせることもあった。土地を奪われた人々は、農場主から僅かばかりの土地を貸し与えられ、その地代を払うために、地主の営む農牧場で無賃金で働かされていた。場所によっては、週に5日地主のために働き、残りの時間で、自分たちが食べるトウモロコシの種を撒いた。
 
 カウカ県では、大地主に搾取されてきた農民・先住民族自身が立ち上がり権利を獲得するために闘ってきた歴史がある。20世紀初頭、ナサ民族の伝説的指導者マヌエル・キンティン・ラメ(1880〜1967)は何度も投獄されながら、法律を学び権利回復へ向けた先住民族運動を組織していった。1971年設立のカウカ先住民族地域協議会(CRIC)は、キンティン・ラメの遺志を引き継ぎ、今日では、コロンビア全土における先住民族運動を力強く牽引している。
 
 それでも、大地主の力は強く、先住民族のリーダーが次々に殺害されていった。以前、ハンバロの首長を務めていたフロリルバさんの話では、彼女の祖父は1960年代、地主の農場で働かされていた。ある日、待遇改善を求めて地主に掛け合ったことがある。すると地主は彼の身体をバラバラに刻み、収穫したコーヒーを入れる袋に入れて、彼の自宅の前に捨て置いた。
 
 1984年、カウカの先住民族の中にゲリラを結成し武装闘争を始める人たちが現れる。前述の指導者の名を取り、キンティン・ラメ武装運動(MAQL)といった。この運動は、1991年、先住民族の権利を明記した新憲法制定へ向けた流れの中で武装解除している。


5. カルロスとの再会

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満天の星空に、銃声が響く

 2013年3月、カルロスの元を5年ぶりに訪ねた。コロンビアには毎年のように通っていたが、2009年以来、彼の元を訪ねられずにいた。

 原色で塗られたチバというバスに乗り、未舗装の山道を走って行く。走り始めて3時間ほどの所で、カルロスの息子ハネルが、バイクで迎えに来てくれていた。初めて会ったのは7年前。泣き虫でわがままな10歳の少年だった彼が、17歳の逞しい青年になっていた。
 
 自宅に着くと、カルロスとベティーが台所で夕飯を準備していた。「まぁ座ってゆっくりしろよ」と、彼の畑で採れたコーヒーと、ベティーが作ったトウモロコシのパンを出してくれた。以前と変わらない自然な対応に気分がくつろいだ。お互いの近況を話し合いながら時間が過ぎていく。
 
 ここも紛争の最中にあった。ある晩、銃声がして外を見ると、カルロスの裏手の山から真っ赤な光の筋が、谷を挟んだ反対側の山へ幾筋も走っていった。日中は、軍の爆撃機が不気味な飛行音を響かせ、ゲリラを探して上空を旋回していた。
戦闘のあった夜、私はハネルの部屋で、ハネルの眠る隣のベットで布団に入っていた。布団から顔を出したハネルは、「日本の面白い話してくれよ」と明るく私に話しかけた。それは私を不安がらせないためだったように思うし、彼自身も、怖さを感じているようだった。カルロスはベティーと空を見つめていた。

 人々は日々変わらぬ生活を送る。戦闘は、ここでは雨のようなものかもしれない。それが起きれば家に入り、過ぎるのを待つ。過ぎれば何もなかったかのように、またいつもの日常に戻る。

 繰り返し身近に起こる暴力の中で、人々は恐怖に麻痺しているのではないかと私は思っていた。しかし、そうではない。日常では表に出さないだけだ。生活の中で恐怖と折り合いをつけて生きている。災いに触れないように、自分の身に降りかからないように。そう願い生きているように感じた。カルロスたちは、生まれた時にすでに暴力が隣り合わせで存在し、その中で生きている。

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銃声が響く夜、布団の中から私に話しかけるハネル



6. 未来へ


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生活の中心にあるトウモロコシを収穫するベティ


 2014年6月の決選投票によって再任された現職のサントス大統領は、これまで通り反政府ゲリラ、コロンビア革命軍(FARC)との和平交渉を進める意思を表明している。同じ月にもう一つのゲリラ、国民解放軍(ELN)とも和平交渉がスタートすると報道があった。誰もがうんざりしているこの戦争は終わるのか。
 
 ゲリラが活動する農村には多くの地下資源が眠っているという。多国籍企業の進出を危惧する先住民族の声がある。一部ではすでに、住民の意思に反し開発が始まっている。そういった場所では、一度は解体された右派民兵が形を変えて活動しているという報告もある。暴力は、外の世界から見えにくい場所で激しく燃え続けてきた。今も昔も、その犠牲となるのは力の弱い人々だ。
 
 コーヒーは5月から8月にかけてが収穫期。1年に一度の稼ぎ時だ。木には熟する前の緑の実がたわわに実り、強い太陽に照らされ輝いていた。それを横目に、久しぶりに雑草の刈り取りを手伝った。暫くすると、ベティーが冷めたコーヒーを鍋に入れて差し入れてくれた。コップですくってガブリと飲む。この甘さが、やっぱりここでは一番いい。「お昼までもう一息やるぞ!」。カルロスに促されて、再びマチェテを握った。
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コカを作る人々 (先住民族の10年News)

今月の「先住民族の10年News」へ寄稿した、コロンビアでコカと共に生きる人々についての記事です。
「コロンビア紀行」として4回連載させていただいた、最終回でした。
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<コカを作る人々>

コロンビアの先住民族社会に深く根付くコカ。それは儀式や薬用に使われる大変重要な役割を果たしている。一方で、麻薬の原料としてのコカ栽培に携わる人々がたくさんいる。その人々の日常はあまり知られていないように思う。

1・生活の中のコカ 

コロンビア南部。ナサ民族集落での話。

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コカの葉を噛み、神聖な気持ちで祭りの日を迎えるナサ民族の男性

  
その日、月は見えなかったが、夜空は明るく、隣り合う人の横顔がよく見えた。晴れ渡る空を星が埋め尽くす。あの明るさは星のせいだったのか。電気の届かない集落でのことだった。
  
この土地には、伝統的な医療やまじないを施す司祭がいる。この夜、司祭は、星を見ながら儀式を執り行うための場所を探し山を歩いていた。「ここにしよう」。草むらにむしろや上着を敷いて各々が腰を下ろす。近くを流れる小川の水、時折吹く風、それに揺れる草木、虫のささやき――。暗闇を彩る音たち。こんなに豊かな音に囲まれ毎日を過ごしていたのか。心が落ち着いてきたころ、司祭がコカの葉を一人ひとりに配る。掌いっぱいの炒って乾燥させたその葉を口の中に押し込み、他の薬草、石灰の粉とともに咀嚼する。苦い。口の中で葉が、どろどろになるまで噛み続ける。
  
私の隣に腰を下ろす家族が、最近立て続けに起こる禍<わざわい>ごとを払うために司祭をよんだ。原因不明の腹痛が続く子どものこと、仕事がうまくいかない父親のこと、近隣の人とのわだかまり――。コカの葉を噛みながら、ポツリポツリと依頼者が小声で司祭に語りかける。司祭はそれを頷きながら聞いている。
  
しばらくすると、司祭は夜空を見上げ、強い地酒を口に含む。どこかの方角を確認するよう夜空に目を凝らし、見定め、そこへ向けて口の中のコカとともに酒を噴き出す。そして、座る一人ひとりの前に立ち、それぞれの身体の輪郭を、手に持つ30センチほどの木片と、コカの入った袋で二度なぞる。不思議な温かさが上着越しに伝わってくる。その後は、司祭がしたように一人ひとりが酒で口をすすぎ、夜空へふき散らす。この一連の動作を、延々と7時間余り繰り返した。終わるころ、幼い子ども2人は母親の膝で眠りについていた。口の中はコカのせいで痺れ、鈍い感覚を残していた。だが、幻覚・幻聴・酒に酔ったような感覚などは全くない。
  
一般に、コカの作用は空腹を紛らわせたり、高山病の予防になるなどといわれているが、そういうことなのだろうと思う。これに幾つもの化学薬品を加えながら、何度も精製を重ねたものが「コカイン」となる。「コカ」は原料であって、「コカイン」とは全く別物だということは頭に刻まなければいけない。
  
コロンビアだけではなく、アンデス山脈に暮らしてきた人々にとってコカは、古くより生活に密着した作物だ。コロンビアで見たこの地域では、自宅の敷地にコカを植え、家の中には大きなずた袋一杯の乾燥したコカの葉が置かれている。
 
私は儀式以外でも腹痛を起こしたとき、コカを煎じたお茶を飲んで、すっかり良くなったという経験がある。
  
2・コカ経済
  
アンデスに暮らす人々にとって日常に密接したコカではあるが、その一方で、麻薬の原料としての栽培が広く行われているという事実がある。
  
コロンビアでは、非合法武装組織の資金源となっているだけではなく、農村の貴重な現金収入源となり広く根付いている。

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山岳地帯に広がるコカ畑を歩く青年。ここにはコカ以外に収入を得るすべがない
  
コロンビア南部の山間部に暮らす20歳を迎えたある青年は、山奥の集落で生まれ育ち、ここで高校までを卒業した。その後は、実家の農業を手伝い暮らしている。牛を2頭、庭先にはいくばくかの鶏とアヒルを飼っている。敷地内に何本も生えているオレンジの木には、時期を迎えると取りきれないほどの実がなり、毎日オレンジジュースを飲んで暮らす。グアマ、パイナップル、ミカン、時期によって実る様々な果物。トウモロコシ、ユカイモ、フリホール豆、食卓を賑わす色とりどりの作物を畑から持ってくる青年の父親が、「おれの作ったユカイモは最高だぞ」と、自慢する。ゆでて食べると、ふっくらとし、淡い甘さが口の中に広がる。毎日取り採りたての新鮮な作物が食卓に並ぶ。
  
この家の近くに、広いコカ畑がある。人の背丈より少し高いコカの木が、温かな風に吹かれ、やわらかい音をたて揺れている。その中を、私は青年と歩いていた。
  
彼は「ここには仕事がない」と話す。
  
「高校を卒業してもっと勉強もしたかったけど、お金がない。だから軍隊に入ろうとした。でも、この集落には、ゲリラ(反政府ゲリラFARC)のシンパがたくさんいて、軍隊に入ると政府側に付く裏切り者として見られる。家族に危険が及ぶかもしれない。母親に泣いて叱られちゃって、やっぱりそれはできなかった。コカを作るしかないよ」
  
コロンビアは50年に及ぶ国内紛争の中にある。この青年の暮らす地域は、反政府ゲリラFARC(コロンビア革命軍)の力が強く、ゲリラに協力する住民が多い。ミリシアーノと呼ばれる協力者はここの場合、武装してはいないがゲリラ兵士に食糧を提供したり、物資の運搬、山中に展開する軍とそこに関わる住民の監視など、他の住民と変わらぬ日常を送りながらゲリラに協力する活動をしている。これまでに、ゲリラと距離を置こうと動いた地域のリーダーが、ゲリラに殺害されたこともある。ミリシアーノによる密告があった。
  
別の22歳の農村出身の青年は、高校卒業後、国内第二の都市メデジンの大学に合格した。実家から離れた町で事務職につく姉の援助で、下宿生活を始める。姉は、自分の生活を後回しにし、弟を支援していた。しかし、無理が出始め仕送りがとまると、彼は大学への学費、生活費が賄えず休学し、実家へ帰ってきた。「ここで1年間コカを摘んで、戻れるならまた大学に戻りたい」と話す。

3・収穫
  
国内で生産されるコカの27パーセントが栽培されるナリーニョ県で、山間の集落に滞在中、何度かコカの収穫に出合ったことがある。
  
ナリーニョ県には、沿岸部に広がる10ヘクタール以上の大規模なものから、山間部の家族単位で営む1ヘクタール未満の小規模なものまで存在し、多くの人々がコカ栽培に携わり、生計を立てている。
  
コカは3カ月に一度収穫することができる。葉を虫から守るために薬を数回まく以外、あまり手間がかからない。

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自宅でコカを精製する。世界的な麻薬ネットワークの末端にいる人々の日常


  
ある農家のコカの収穫に立ち会った。彼らは1ヘクタールほどのコカ畑を持っている。

収穫の日、畑の主人は親類や友人を招待し、7ドル程度の日当を支払う。現金収入が極端に限られる山間地において、収入を得る貴重な機会であり、皆が張り切ってその日を迎える。子どもたちも、「オレはこんなに採ったことがあるんだぞ!」と腕を自慢しあう。招待した側は、収穫が続く数日間の朝昼2食、魚や肉など普段より豪華な食事を振る舞う。それも皆の楽しみの一つだ。(日当については、組織的な大きな農場では歩合で支払われ、1日に数十ドルにもなると聞いた。)
  
以下は、2013年末にナリーニョ県で聞いたもので、時期、場所によって多少金額の変動がある。
  
コカは、2カ月半から3カ月おきに収穫される。山間部では一次精製後ペースト状までし、町にいる仲買人に売り渡す。精製を自分でせずに葉を売り渡す人もいる。天候など好条件が重なると、1ヘクタール当たり、35~40アローバ(約410~480キロ)のコカの葉が収穫でき、1.6キロのコカペーストが作られる。ペーストは1グラム当たり1600ペソ(約0.8ドル)ほど。一度の収穫で、約1100~1300ドル。ここからガソリン等、精製に必要な薬品代、人件費で200ドル程度引かれることになる。これが、末端で生活するコカ農家の3カ月分の収入だ。コロンビア国内の一ヶ月の最低賃金は約300ドルである。
  
この地域は、これまで、まとまった現金収入源を持たなかった。トウモロコシやバナナなど、土地で育つ作物は生活できるほどの値はつかず、自給用に確保し、余剰分を売っていた。家畜を買えれば子牛を買い、育てて売る。特別な日にはそれを潰して振る舞うこともできる。人々は自給自足的な世界で生きてきた。外の世界から物理的・心理的に距離のある生活だった。
  
90年代に入ると、隣のプトゥマヨ県にコカ栽培が広がる。多くの人がそこへ出稼ぎに行った。移住する人々も増えた。「夢がそこにあると思った」と振り返る人もいる。出稼ぎ先から誰かが種を持ち帰り、コカ栽培が始まった。
  
ある男性が言う。「ここにはお金になるものが何もなかった。本当に大変だった。病気や怪我をしても薬も買えない。服も」。彼は今、コカを積極的に作っている。そのお金で馬、チェーンソー、携帯電話を買った。また、ある子どもが言う。「うちでは、今年3回コカを収穫したらパソコンを買うんだ。去年はバイクを買ったよ」。コカのおかげで、安定した収入を手にすることできた。それによって初めて将来の設計ができるようになった。町に暮らす人にとって、当たり前のことをようやく手にしたのだ。
  
その一方で、この現状をよく思っていない人もいる。地域の指導者として活躍したある男性は、コカを「悪魔の作物」と呼び、手を出さなかった。コカの取引から得る収入に、武装組織は税金をかける。その取引の中で、トラブルから殺害される人々が後を絶たない。また他の人は、コカによって収入源が獲得できたことを認めながら、それよって変わってしまった人々の意識を問題視していた。
  
以前は、営まれる地域社会の前提に、金銭のやり取りはなかった。一つの例が、地域における協働作業だ。農作業、道路や学校などの公共施設の建設などには賃金が発生しない住民による協働作業が行われている。それが、小さな社会を円滑に回すことに繋がっていた。協働作業は現在も続くが、自分の仕事を優先するし、協力しない人が増え始めた。コカなど、現金収入となるものに関する仕事と重なれば、そちらを優先する風潮が増している。根本的な所ところで、人々の意識が変わり出している。
  
お金があれば、得られるものがある。目に見えて変わる生活。昨日までなかったテレビや冷蔵庫が家に現れる。持つものと、持たざる者の格差が生まれつつある。
  
山間の小さな社会に急速に価値観の多様化がひろがっている。日常的に町に出る機会の中で、山での生活との格差を感じてきた人たちが、コカという収入源を得たことで、ある人は憧れを手に入れ、ある人は劣等感を埋めようとする。
  
後ろめたさを持ちながらも、コカを作り続ける人々の日常がある。
  
4・世界の中で  

未だ世界一のコカイン生産国ではあるが、コロンビアにおいて、コカの栽培面積は年々減少している。今ではピーク時の半分以下にまでなっている。米国を後ろ盾にした政府による対策が功を奏していると言える。代替え政策が成功している地域もある。
  
しかし、コカが問題としている事柄の本質は何一つ変わっていない。紛争の根本的な原因でもある社会格差は、日々拡大し続けている。現在も続く、反政府ゲリラFARCと政府間の和平交渉さえ、辺境に暮らし、日々コカを頼りに生きざるを得ない、本当に平和を望む人々の顔が見えているのか疑問がある。和平合意がなされたとして、その後には、辺境の地に眠る豊富な地下資源の採掘がはじまると言われている。過去には、そうした場所で、企業と繋がった非合法武装勢力による住民の強制移住が起きている。
  
私が歩いた場所は、辺境にあり、他の地域から取り残され、今も紛争が続き、未だ満足な教育、医療等、生活環境が整っていない。日々、故郷を少しでも住みやすくしていきたいと願いコツコツ行動してきた努力は、麻薬取引、武力紛争、資源開発という、巨大な力でわけもなく踏みにじられてきた。あんな山の中で、コロンビア人にさえ知られていないような世界の片隅で生きるがために、「世界」という巨大すぎる力と真正面から対峙しなくてはならないという、この事実はどういうことなのだろうか。
  
今、日本にいる私は、世界中のあらゆる場所にいる人々と繋がっている。私の目の前にあるものがどこから来ているかということが、それを示している。私が些細な事を大切にしているように、すべての人は、それぞれに大切な物ものを持ち生きている。私の無意識の行動が、地球の裏側の人の自由を奪うのだとしたら、私はなにゆえ、その自覚を持たずにこれまで生きてきたのか。ここに今ある矛盾を解くカギがあるのかもしれないと、漠然とだが感じている。
(完)

「受け継ぐもの」 カトリック新聞 2014年9月21日号 (カトリック新聞社)

カトリック新聞 2014年9月21日号 (カトリック新聞社)に寄稿した記事を転載しました。
コロンビアの太平洋岸の港町トゥマコで開館した歴史記録館にまつわるお話です。

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「受け継ぐもの」

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相棒のドラさんと食事をするシスター・ガビ(右側)。快活に生きる姿に多くの人が魅かれた



2013年9月、コロンビア南西部、太平洋岸の都市トゥマコで、国内紛争・暴力による犠牲者を記録した「歴史記録館」が開館した。

開館時、トゥマコのカトリック教会所属のシスター・ガビさん(64)は、「暴力に負けないためには、決して沈黙してはいけない。行動し続けなければいけない」と、記録館の意味を語った。

内部に展示されている285人の犠牲者の顔写真は、およそ10年前から、カトリック教会による慈善団体「パストラル・ソシアル」の呼びかけに遺族が答え、持ち寄られたものだ。壁面に隙間なく並べられた写真には、名前と生年月日、殺害、または誘拐された日付が記されている。女性、男性、幼い子ども、深いしわを刻む年配者、多様な人々がいる。彼らはどんな人生を送ったのか。開館の日、訪れた多くの人は写真に向き合い、犠牲者から向けられる視線に思いを巡らせた。

トゥマコは太平洋側第二の国際貿易港である一方、麻薬の積出港になっているといわれ、さまざまな武装組織が勢力を争い、抗争やテロに巻き込まれる人が後を絶たない。2001年からの11年間に2000人以上が犠牲となり、5万6000人以上が避難民化したといわれる。

歴史記録館開館は、トゥマコで毎年開かれる「平和週間」に合わせられた。これは、01年に暗殺されたシスター・ジョランダさんの命日に行われる。

ジョランダさんは、トゥマコ周辺で不当に農地を奪う資本家から、貧しいアフリカ系住民たちの生活を守るため前面に立ち争った。その中で、資本家が放つ殺し屋に銃殺された。

ジョランダさんの仲間だったのが、シスター・ガビさん。彼女はジョランダさんの遺志を継ぎ、記錄館建設を夢見た一人。1950年ドイツで産まれたガビさんは、強い好奇心から27歳でコロンビアに来た。

私はガビさんと、内陸の先住民族を取材中に知り合った。彼女は辺境を丁寧に回り、人々の声に耳を傾けていた。いつも大好きなタバコを吹かし、大きな声で快活に笑い話す。コロンビアを愛し、多くの人から愛されていた。

そんな彼女から私は、平和週間中にひらかれるイベントの写真撮影を頼まれた。「泊まる場所は心配ないよ。うちに泊まればいい」と言ってくれた。

自宅に泊めてもらった4日間、毎晩2階のバルコニーでビールを飲み、いろいろな方向に飛んで行く話を楽しんだ。その中で、ガビさんの記錄館への思いを聞き、また私には「君は、君の思うことをやりきりなさい」と言ってくれた。

しかし、突然、彼女は帰らぬ人となった。心筋梗塞。葬儀に行くと、棺の中のガビさんは穏やかに目を閉じていた。早すぎる死を周囲の人は悔やんだが、夢見た記録館完成を見届け、大好きなコロンビアでたくさんの友人に見送られる彼女の人生は、幸せだったのかもしれない。

歴史記録館は、多くの犠牲者の遺志がガビさんをはじめ、生きる人を動かし作られた。

「暴力に負けないためには、沈黙してはならない。行動し続けなければいけない」「君は、君の思うことをやり切りなさい」というガビさんに言われた言葉は、私の中で強い熱を放つ。この熱が、彼女も受け継いだバトンなのだろうか。

辺境の故郷 コロンビア・アワ民族

2014年7月発行「SONRISA」(日本ラテンアメリカ協力ネットワーク)に、アワ民族(コロンビア)の記事を寄稿し、ブログに転載しました。(一部加筆修正しています。)

コロンビアの辺境で、なお続く紛争と、そこで暮らす人々のお話です。
お読みいただけたら、嬉しく思います。

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<辺境の故郷 コロンビア・アワ民族>


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アワ民族コミュニティー・マグイがあるコロンビア南部山岳地帯


 50年に及ぶ内戦が続くコロンビアでは、一昨年から始まった反政府ゲリラ「コロンビア革命軍」(FARC)と政府の和平交渉の行方が注目されている。そんな同国で近年、特に緊張が高まっていたのが南部のナリーニョ県だ。中でも先住民族アワの自治区マグイがある山間部一帯はエクアドルとの国境が近く、FARCの重要な活動地として2000年以降、軍の激しい攻撃にさらされてきた。
 
 2013年2月、私はマグイを訪れるためにコロンビアへ向かった。2014年4月に日本へ帰国するまで、3回に分け延べ約7カ月を過ごした。

1.証言

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マグイの紛争被害を証言するホセ・チンガルさん


 「紛争は私たちの社会を破壊しました」。
 
 2013年11月、ナリーニョ県の太平洋岸の町トゥマコで政府機関が主催した紛争被害の証言集会があり、マグイから招かれた地域リーダーのホセ・チンガルさんは、そう状況を報告した。辺境に位置し、政府に顧みられることのなかったマグイが本格的に紛争に巻き込まれるようになったのは2000年以降。以来、5つの集落に224家族が暮らすマグイで少なくとも30人以上が死亡、または行方不明となった。一時は軍によるFARCへの攻撃の激化で住民の9割が避難民となった。周辺地域も含めると、この10年間で更に多くの人々が命を落としている。

2.マグイへ

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2012年12月2日の空爆で形の変わった山

 2013年2月。私はホセさんに連れられ、初めてマグイを訪ねることができた。私は以前に2度、2009年と2011年にマグイに入ろうとしたことがある。その時は情勢が緊迫していたことと、何より地元の人の信用を得ることができずに失敗したが、2011年に偶然ホセさんと知り合い、連絡先を交換していた。今回はコロンビアに着いてすぐ、ホセさんの連絡先に電話をした。マグイに行きたいと伝えると、「今は治安が落ち着いているので、一緒にいくなら来ても構わない」とのことだった。私のことを覚えてくれていたことにホッとし、嬉しくなった。

 山の中にあるマグイヘは、麓の町アルタケルから徒歩で4時間かかる。その間に幾つかのアワ民族が暮らす集落が点在する。アルタケルからマグイへ向かうと最初の集落ベガスに着く。そこまでは車がなんとか入れるが、その先は徒歩か馬だ。地元の人たちは山を歩く際の距離を「半日」「1日」と歩く時間で表現する。エクアドル国境までは「2日」だ。

 ホセさんと共に、山奥へ続く一本の道を歩いていく。目の前に広がる、美しい緑に覆われた深い山々に目を見張った。幾つもの沢が山肌を流れている。「どんな作物も良く育つ、豊かな土地だった」。以前に、マグイを去った避難民の老人から聞いた言葉を思い出す。

 アワの人たちは地元で作られるチャピルというサトウキビの蒸留酒を飲みながら山を歩く。アルコール度数45度の強い酒だ。これを飲むと力が出て、早く目的地に着くという。チャピルが好物のホセさんは嬉しそうに私に説明しながら、チャピルが入ったペットボトルのキャップに注いで私に飲ませると、自分もクッと一息に飲み干した。
 
 道をすれ違う人たち同士は、ほとんどが顔見知りだ。週末には買い出しにアルタケルへ向かう多くの人が行き交う。人々はすれ違う度に足を止める。「(アルタケルに)出て行くの?」「そうだよ。そっちは戻ってきたの?」という会話が挨拶代わりだ。少し立ち話をして「また明日」といって別れる。チャピルを持っていれば、そこで何度か杯を交わす。チャピルで力が出る、と言うよりは、長い道のりを楽しい気分で歩くことが力になるのかとも思った。途中で酔いつぶれて歩けなくなっているおじさんを見かけることもままある。
 
 マグイへ向かう道中、残された紛争の跡を示して、ホセさんは説明してくれた。住む人が去った家々、FARCと軍の戦闘の起きた場所、FARCに一家全員が殺害された場所、地雷で人が亡くなった場所――。

 道沿いの山肌に、小さな穴が空いているのが目に入った。1つではない。2、3メートル間隔でいくつも続く。「以前、軍との緊張が高まった時、FARCによって小型の爆弾が埋められていたんだ」とホセさんが話す。爆弾が仕掛けられるのは夜の6時から早朝6時まで。爆弾から伸びる紐が道を這い、紐に足をかけると爆発する仕組みだった。動線でつないで離れた場所から爆発させるものもある。危険なため、夜間の往来はしないよう住民に協力が求められていたが、この爆弾の犠牲になった住民もいる。

 爆弾が仕掛けられなくなったのは、2012年12月2日の軍による大規模な空爆の後からだった。当時、マグイ内の山林にFARCの兵士が野営をしていたという。午前1時頃、いくつかの爆撃機が低い飛行音を谷間に響かせ現れた。FARCの野営地上空に辿り着くと、明け方4時ごろまで激しく爆弾を落とし続けた。この攻撃で25人以上のゲリラ兵士が殺害された。その中に、マグイ周辺を拠点としていたFARC機動部隊マリスカル・スークレの司令官もいた。
 
 空爆の後、ゲリラはマグイを離れ、エクアドル国境近くへと拠点を移している。これにより地雷は仕掛けられなくなった。以降、マグイでのFARCの影響力は低下したとみられる。例えば、それまでマグイが毎年払わされていた「革命税」を2013年は払わずに済んだと聞いた。これまでゲリラにより携帯・カメラ等の通信機器の持ち込みが厳しく制限されていたにも関わらず、写真を撮ることを目的とした私が入ることができたこともその一つだとう。これはとても大きな変化で、空爆以降、一気に携帯電話が集落内に持ち込まれた。今ではほぼ一人一台に近い状態だ。2013年後半、FARCが戻って来てからも、この変化が後戻りすることになっていない。
 


3.マグイの学校

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深い山に囲まれたマグイの学校。先住民族の子どもたちが通う。

 マグイを含めアワ民族が暮らす一帯はコロンビアの辺境にある。長い間、中央から顧みられることがなかった。車が入れる道路がないのは前述したが、マグイに電気が通ったのは3年前だ。他の多くの地域には未だ電気は通っておらず、懐中電灯と石油ランプが夜の屋内を照らしている。
 
 そんなマグイに初めて小学校ができたのは1960年代始めのことだった。地元の人たちの手で山から木を切り出し、校舎を建てた。教師は生徒の父兄が町で適任者を探し、お金を出し合い賃金を払っていたという。

 だが、小学校から上へ進学するには町に出るしかなかった。山間の家からは遠くて通えず、下宿しながらの生活になる。費用がかかることや、親世代に就学の習慣が根付いていないことから、進学しない子どもが多かった。

 また、町では先住民族以外の人々が多数を占め、文化も山とは違う。以前は今よりアワに対する蔑みが強く、言葉や生活習慣の違いをバカにされたという。マグイでは50年前は全員が話していたというアワ語だが、現在は日常的に話す人は一人もいない。背景にあるのが、町に出た時に蔑まれた経験だ。かつてはアワ語を使っていた年配者も今は話すこと嫌う。話すことが「恥ずかしい」と思っているのだという。だから子どもにはスペイン語だけで接するようになった。町の生活に馴染んでいこうとすれば、それはアワの文化を捨てることも意味していた。

 そして現在。マグイには小学校から高校までをカバーする学校がある。「山で暮らすアワの子どもたちが誇りを持って生きていけるよう、先住民族のための学校を作りたい」。そんなホセさんの夢が実を結び、90年代初めに設立された。この地域一帯で唯一、山間にある先住民族のための学校だ。校名を「インガル・アワ」という。アワの言葉で「山に生きる人」を意味する。

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マグイの学校に念願の顕微鏡が届いた。15年学校に勤めるヘンリ先生が、生徒に使い方を教える。

 
 学校をはじめ、地域がどう未来へ向かって進むべきなのかをホセさんは考え続けてきた。アワとして誇りを持って生きられる故郷を作りたい。その夢を地域の内外で語り続けることで協力者を得て、学校の他にも道路などを一つ一つ実現していった。彼の情熱に多くの人が引き寄せられてきた。

 マグイの学校で初代校長を務めたイバン神父もホセさんらとともに積極的に活動してきた一人だ。「ホセさんは常に夢を持ち、将来を見据えた大きな目標がある。私はそれに協力した」。神父はそう話した。


4.アワとして生きる

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地域の集会に参加するホセさん。多くの人から信頼を集める。


 ホセさんのこの情熱はどこから来るのだろう。

 ホセさんは1955年9月1日、ナリーニョ県の高地の町コルドバで生まれた。両親はマレスという先住民族だ。ホセさんの姓のチンガルは、マレス民族やエクアドルの先住民族の人々に見られるという。
 
 コルドバは先住民族と白人の混血であるメスティーソが住民の大半で、マレス民族自身も言葉や習慣など独自の文化をすでに失っていた。当時、自分たちが「先住民族」という意識は薄かったようだ。

 ホセさんは幼い時に両親が別離し、母親に育てられた。コルドバの小学校を卒業し、日本の中学校に当たる学校には入学したものの、すぐに行くのを辞めてしまったという。学校では周りの子どもたちに「チンガル」という姓を先住民族と結びつけられバカにされた。それが悔しくて悔しくてたまらなかったのだ。12歳の時にカケタという近隣の県へ親類を訪ね、農場などで働き始めた。仕事を覚えれば大人も子どもも同一に扱われ、賃金が貰える。彼は学校に興味を失った。

 ホセさんが18歳まで過ごしたカケタ県はアンデス山脈の東側に位置し、幾つもの大河が熱帯雨林地帯を横切る。河の周囲にはインガという先住民族が暮らしていた。そのインガの人々とホセさんは一時期生活を共にした。独自の言語・文化の中で生きるインガから多くを学んだという。数多くの薬草の知識、狩猟の仕方、作物の栽培方法。長い歴史の中で積み上げられた民族の経験が、生活の中に息づいていた。

 ホセさんは18歳でカケタを離れ、好奇心に任せて各地を渡り歩いた。国境を超えてエクアドルでも暮らした。仕事は行く先々で見つけた。大工、農場、パン屋。どんな仕事も楽しくて精一杯取り組み、気が付くと色々なことができるようになっていた。友人もあちこちにできた。

 生まれ故郷のコルドバを離れてからの生活で「人はどう生きるのかを学んだ」とホセさんは話す。「地域によって違いがある。そこで起こる問題にも違いがあるということも身体で感じた」。この経験が地域のリーダーとして活動する今に通じている。

 20代半ばになって、ホセさんは母親が暮らすコルドバに戻った。大工の仕事で近隣の高地の町クンバルへ行った際、夫人のロサさんと出会った。ロサさんの両親はクンバル出身だが、1950年代に住みやすい温暖な土地を求めてマグイに入植していた。ロサさんも両親と共に幼くしてマグイへ移住したが、クンバルに残しておいた家に戻っていた時にホセさんと知り合ったのだそうだ。

 ロサさんと結婚したホセさんはマグイで暮らし始めた。土地はロサさんの父親から土地を譲ってもらった。当時30歳。農業を営む暮らしは未知のこと。何もわからなかったが、周りに暮らすアワの人々は作物の種や鶏を分けてくれた。ホセさんは、ここで子を育て、根を張り始めた。山での暮らしを懸命に覚えていくホセさんを、アワの人々は受け入れてくれた。「今でも感謝している。恩返しをしたいと思って生きている」とホセさんは言う。「地域の先頭に立って仕事をしていくことに迷いはない。私はアワではないけれど、今はアワとして生きている」。


5.紛争

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仲間が地雷の犠牲となった場所に立つホセさん。

 平穏だったこの地域は、どのように紛争に巻き込まれていったのか。マグイに反政府ゲリラが本格的に入って来たのは90年代中頃。FARC(コロンビア革命軍)とは別のELN(国民解放軍)だった。80年代に、別のゲリラM-19が来てはいたが、通過するのみだったと聞いた。ELN が来た時期については人によって記憶に違いがある。マグイが先住民族自治区として登記された94年という人もいれば、それ以前だという人もいる。だが、だいたいこの前後であったことは確かなようだ。人々の話を総合すると、概ね次のようだった。

 ある日、ELNの主要なメンバーがマグイにやってきた。マグイ住民の代表による、コミュニティーの意思決定機関である評議会と接触して「私たちはコミュニティーと協力して地域のために働いていきたい」と申し入れた。ELNを受け入れるかどうか話し合いが行われ、受け入れることになった。

 彼らは武器を持っていたが、地域で戦闘が起きることはなかったという。政府軍が山に入ってくれば、ELNの兵士たちは軍が去るまで別の場所へ移って衝突を避けた。ELNは近隣の資産家から道具と資金を提供させ、地域の活動に回していた。ある時はその資金で牛を買い集め、共同体の住民による共同牧畜を始めた。牛を売ったお金は各家庭へ均等に分配された。地域の指導者や教師、外部からも弁護士や大学教員などを募って政治をテーマに勉強会を開いたこともあったという。

 だが、2000年になると、FARCが地域に入ってきた。ELNとの戦闘も起きた。マグイはFARCの勢力圏に置かれたが、一帯で見ればFARCとELNがモザイク状に場所を分けあう形となっていた。

 FARCは独自の「山の法」を敷いていった。通信機器の持ち込みを禁止したのもこれによる。それでもまだ、住民に対する縛りは緩やかだったようだ。だが、2002年、対ゲリラ強硬派のウリベが大統領に就任すると、ゲリラへの攻撃は激しさを増した。住民の話を聞いていると、この時期からFARCが大きく変質した様に感じる。軍と繋がりのある、あるいは繋がっていると疑われた人を容赦なく殺していった。ゲリラに反する行動を取る人に対しても、見せしめ的に本人だけでなく家族までも殺害する場面があった。

 一方の政府軍は、山で暮らす人々をゲリラ、またはゲリラの協力者と決めつけていた節がある。ヘリコプターがアワ民族の地域に低空飛行で入ってくると、無差別に民家を銃撃していった。屋根に銃痕の残る家がやたらとあるのはそのせいだ。2004年にはマグイの小学校が軍の空爆を受けて大破した。早朝で児童は登校前だったため、死傷者が出なかったのは幸いだった。軍が住民不在の家へ上がり込み、無断で物を持ち去り、家畜を食ったという報告も少なくない。激しい攻撃を恐れて町へ逃れた人々の中には、避難民として名乗り出ることを嫌った人もいる。山から来たゲリラの協力者と疑われ迫害される危険があったからだ。

 他にも人々を弾圧した組織がある。右派民兵だ。現在、ウリベ前大統領も含め、当時の政府関係者との癒着が告発されている。政府は民兵を使ってゲリラに攻撃を仕掛け、ゲリラの協力者と思われる一般の人々を迫害させた。実際、農村を歩いていると、軍と行動を共にしていた、頭髪の長い、髭を生やした武装グループの証言を耳にする。軍の兵士は全員が坊主頭で髭を蓄えることはない。人々と話していると、軍、警察と民兵が同一視されているのが分かった。

 アルタケルで商店を営むある夫妻は、娘がELNに入隊した。本人の意思かどうかはわからない。軍は夫妻をELN協力者と見なし、町から去るよう圧力をかけ始めた。気にしないように努めていると、ある日、夫妻が営む商店に民兵がゲリラ兵士を連れてきて、店の前で銃殺した。更に数日後、ちょうど店を閉めて少し離れた畑に行っている間に、やってきた民兵が店に火を着けた。店に隣接する自宅にも火は及んだ。この町には警察施設があるが、民兵の行動を黙殺していたという。夫妻はその後、エクアドルへ亡命。3年間、避難民として生活したが、日雇い以外に仕事がなく、生活に疲れ、状況が落ち着きを見せたアルタケルへ戻ってきた。

 2005年に息子を失ったある母親にも話を聞いた。当時15歳だった彼女の息子が山で軍の兵士と鉢合わせた。息子は恐怖から逃げ出すと、後ろから銃撃され倒れた。一緒にいた友人が背負って母親のもとまで連れてきたが、間もなく息を引き取った。逃げ出した理由について「身分証を持っていなかったため、軍に自分の身分を証明できないことを恐れたのではないか」と母親は言う。他にも、ただ山を歩いていただけで軍から発砲されたという人の話も聞いた。

 マグイでは2006年に紛争がピークを迎えた。FARCが活動するマグイとその周辺に対し、10日間にわたって軍が空爆した。この時、軍が兵士を山に送り込もうとする直前に、FARCによって全ての道に地雷が埋められたという。その前日、FARCは住民に逃げるよう警告を出したという証言もあり。こういった緊迫する状況の中で、住民の9割以上が避難民となって山を下りた。逃げられなかった人の中には、家族に病人を抱えていたり、外の社会で生活することへの恐れから集落に残った人がいた。

 山を下りた人々も、持っていったのは必要最低限のものだけだった。町での生活に馴染めず、数ヶ月で山に戻った人もいれば、そのまま未だに戻っていない人もいる。集落から離れていた間、人々は貴重な財産である作物の種や家畜を失った。所有する畑に地雷を撒かれ、入ることができなくなった人もいる。この経験が、その後は戦闘があっても外部へ出たがらない理由となっている。


6.和平交渉の今

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避難民生活を送るマグイ出身の老夫婦

 現在、コロンビアでは反政府ゲリラFARCと政府の和平交渉がキューバを舞台に続けられている。FARCは5つの項目を提示し、その3つでこれまでに合意が成立した。私の知人は、これまで決裂してきた和平交渉を思い出しながら、期待を交えつつも少し斜に構えて眺めている。ほとんどの人は、この延びきった紛争にうんざりしている。
 
 私が先住民族コミュニティーで出会った17歳の少女は、かつてELNの兵士だった。ゲリラ兵士に恋をし、彼を追って入隊した。後に妊娠がわかり除隊。出会った時は赤ちゃんを抱きながら学校に通う高校生だった。

 その自宅を訪ねたことがある。赤ちゃんにおっぱいをあげながら彼女はこう言った。「日本には戦争があるの?コロンビアではコロンビア人同士が殺し合ってるのよ。馬鹿なことだと思う」。彼女のボーイフレンドはその後、ゲリラを抜けエクアドルへ逃げていったという。今は何をしているのかわからない。

 この戦争は誰のためのものなのか。誰かを幸せにしたのか。
 
 2013年11月6日、FARCが政治参加していくことで政府との間で合意した。しかし、その同じ日、ナリーニョ県内4ヶ所でFARCは警察施設を襲撃している。更に、私がマグイに滞在していた2014年1月から2月にかけ、マグイでは軍と、2013年後半に地域に戻ったFARCとの間で衝突が続いていた。避難をする人々も一部に出たし、学校を始められないという事態にもなった。テレビから伝わる和平交渉のニュースがどこかと置い場所の出来事に感じられた。
 
 今年6月には、もう一つの反政府ゲリラELNが政府との和平交渉をスタートさせるという報道があった。しかし、ゲリラが武器を置いたとして、それが平和につながるのだろうか。新自由主義政策を進める社会は今もなお、弱い立場の人々を置き去りに「発展」を掲げて邁進している。そもそもの紛争の原因であった構造化された社会格差は解消されることなく、年々拡大し続けている。解体されたといわれる右派民兵は形を変えて各地でその勢力を伸ばしている。

 また、現在の紛争地には多くの資源が眠っているといわれる。ゲリラがいることで開発が進んでいない多くの地域ある。和平は紛争地帯の資源開発とセットであるという話も聞く。紛争地で暮らす、誰よりも平和を願う人々の生活のその後は、保証されていない。大きな声で語られる「経済発展」の前に、人々の生活は飲み込まれていくのか、そう心配をする人々がいる。

 「国もゲリラもいらない。我々は自分たちで将来を築いていく」。ある先住民族指導者はそう話した。

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元反政府ゲリラ・国民解放軍兵士の少女


7.故郷


 今回、私がマグイを訪ねたのはなぜか。私は2007年、エクアドルで避難民として生活するアワの人々に出会った。彼らの多くがマグイ出身者だった。

 初めは「避難民」「先住民族」としての彼らを見ようとしていた。それは、私自身が持ち込み、相手に押し付けたイメージでしかなかった。その後、私は毎年のように彼らの元を訪ねるようになった。その度に、これまで知らなかった一人ひとりの思い、経験に触れた。私と何ら変わらない一人の人間としての姿が胸に迫ってきた。

 彼らは自分たちの故郷のことを沢山聞かせてくれた。これまでどう生きてきたか。そこがどんなに住み良い土地だったか。温暖な気候、豊かな水と緑、良質の土。その環境で、自分の土地に好きな作物を作って生きる喜びを活き活きと語っていた。

 山の生活、仕事、食べ物、天気、日々のこと、彼らの語る言葉を同じように自分も使って語り合いたいと強く思った。いつしか、マグイを訪ねることが私にとっての生きる力になっていた。実際に訪ねると、その言葉の通り、美しい山々に抱かれ人々が生活していた。

 ホセさんの後を歩いて初めてマグイに向かった日。地元の人なら4時間で着く道のりを、私はすでに7時間歩いていた。「ダイスケ、あと少しで着くぞ!頑張れ、チャピルが足りないな!」。ホセさんは全く疲れていないようだ。最後に延々と続く急斜面を登り切ると、立っていられないくらい足がガクガクした。山歩きに慣れていない上に、ちびりちびりと飲んでいたチャピルがすっかりまわり出していた。暑さと酔いで喉がカラカラだった。

 沢のそばで少し休んだ。ホセさんが沢に顔を突っ込み、水をがぶりと飲んだ。とても旨そうだった。私も顔を突っ込み水を飲んだ。なんて冷たい水だろう。めちゃくちゃ旨かった。そのまま頭を水の中に沈めた。

 顔を上げると、目の前がパッと開けた気がした。山々に聞いたことのない鳥の鳴き声が響いていた。深い木々の隙間から、夕日に染まりつつある赤い空が覗いていた。やっとマグイにこれたんだ。疲れている場合じゃない。私が歩いてきたこの道を、これまで出会ってきた避難民の人たちは毎日歩いていたんだ。この水を飲み、空気を吸って生きていたんだ。精一杯感じなきゃいけない。

 「もう一杯飲め!」。ホセさんが勧めるチャピルを一息にのみ、ふらつく足で、再び歩き出した。そんな私を楽しそうにホセさんは見つめていた。

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アワ民族コミュニティー・マグイとシネミンガのプロジェクト

アワ民族コミュニティー・マグイとシネミンガ(www.cineminga.org)が協力してマグイのブログを運営していきます。
そのお手伝いをしていきたいと思います。


マグイはコロンビア南部ナリーニョ県のエクアドル国境近くに位置するリカウルテ市にある先住民族アワの自治区の1つです。

この地域は1990年代後半から次第に激化する紛争に巻き込まれていきました。私は、エクアドルで紛争避難民として暮らすマグイの人たちに出会い、その縁がきっかけで、昨年よりこの地域に出入りすることになりました。

紛争の中で沢山の人が傷つき、亡くなったと聞いています。実際にこの地に立ち、その豊かな緑と水に心を奪われました。
ある避難民の老人が、もう戻れないかもしれない故郷マグイを思い出しながら、「あんなに豊かな土地はない。なんでも(作物が)育ったんだ。」と話したのを思い出しました。

昨年、マグイに滞在中、コミュニティーの人から、「ここで起きていること、自分たちのことを外に知らせたい」という話を聞きました。

この話を、シネミンガの共同代表のカルロスに伝えたことから計画がスタートしました。

シネミンガは、コロンビアを始め、日本、エクアドル、ネパール等の先住民族・少数民族と協働してそれぞれが自分たちの声を映像を通して外に発信するサポートを続けている団体です。

共同代表のカルロス、溝口尚美さんとは以前にコロンビアのカウカ県で出会いました。

今回はシネミンガから預かったデジタルカメラをコミュニティーに届け、情報発信の一歩目として、ブログを開設することになりました。

http://cinemagui.blogspot.com/(スペイン語)
http://cinemagui-jp.blogspot.com/(日本語)

インターネットがあるマグイの学校を拠点にしていきたいと思っています。

学校が来週始まるので、そこでブログのアップの仕方、写真について説明をして、生徒、先生、コミュニティーの方たちが更新していけるようにできればと思います。



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