「セルバの声 ― ペルー・アマゾン地方」 (sonrisa121号掲載 2009年9月発行)

2009年6月5日、ペルー・アマゾン地方で、資源開発をめぐり、先住民族と軍・警官隊による大規模な衝突が起き、双方合わせて33人の死者と多数の負傷者がでました。

事件直後の2009年8月に現地を訪ねました。

日本ラテンアメリカネットワーク発行の「sonrisa」に寄稿した記事です。

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 「セルバの声 ― ペルー・アマゾン地方」(バグアソの現場から)
(sonrisa121号掲載 2009年9月日本ラテンアメリカネットワーク発行)
 


「私はここで生まれた。だから、ここで死にたい」

焼畑の火入れを終え、熱くなった体を川で冷やしながら、アワフン民族のアメリコさんは話す。茶色く濁った水を湛えるマラニョン川が、セルバ(アマゾン熱帯雨林地帯)の木々を水面に写しながら流れていく。

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マラニョン川を行き交う船

 二〇〇九年六月五日、ペルー・アマソナス州バグア市近郊で、幹線道路を封鎖するセルバに暮らすアワフン民族・ワンピ民族と軍・警官隊との間で激しい衝突が起きた。双方に数十人の死者、一〇〇人を超す負傷者を先住民族側に出すに至ったこの事件は、豊富な天然資源を有するセルバ地方開発を目的とした、政府による一方的な法令の制定に端を発する。自らの頭越しに進められていく資源開発に対し上げられた先住民族の怒りの声を、政府は力でねじ伏せようとしている。

1.セルバへの入り口

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いくつもの支流に沿ってアワフン民族の暮らすコミュニティーが点在する。アワフンとは彼らの言葉で「水と共に生きる人々」を意味する。

 褐色の乾いた大地をひた走る幹線道路の先に、セルバへの入り口となるバグア市がある。同じアマソナス州にバグア・グランデ(大バグア)という町があることから、バグア・チカ(小バグア)と呼ばれている。乾季が終わろうとしている八月、今年は例年にも増して雨量が少なく極端に乾いた町に強烈な太陽が照りつける。渇いた喉を潤そうと路上で豆乳を売るおばさんに声をかける。大きな氷を浮かべたバケツ一杯の豆乳から、なみなみとコップに注いでくれる。一息に飲み干すと、さらにもう一杯注いでくれた。「それにしても暑いですね」と声を掛けると、「あら、すごく寒いでしょ」と茶目っ気のある笑顔が返ってくる。暖かい地域に暮らす人たちの和やかな空気が街の中に流れている。

今回の抗議の中心となったアワフン民族・ワンピ民族は、町から望む山脈の反対側に広がるセルバ ( アマゾン熱帯雨林地帯)で暮らしている。セルバでは一年を九月から十一月の雨季と、十二月から八月の乾季に分けられる。乾季でも週に何日か雨が降り、その豊富な雨量が様々な生命が息づく熱帯雨林の源となっている。雨季には川幅が一〇〇メートルを超えるというマラニョン川が、いくつもの支流を湛え大きく蛇行しながら、後にアマゾン川へと名前を変えてゆく。
 
バグアからセルバへと一本の未舗装道路が走る。メスティーソと先住民族が混在する町が道路沿いにいくつかある。その他大部分の地域に道路はなく、マラニョン川とその支流沿いに点在する四〇〇あまりのコミュニティーで、およそ六万八〇〇〇人のアワフン民族・ワンピ民族が生活している。そこではペケペケと呼ばれるモーターを付けた木製のボートや手漕ぎのボートを移動手段にしている。


2.コミュニティーでの生活

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アワフン民族コミュニティーの朝

 ACID(アマソナス先住民族共同体開発協会)という組織で先住民族のための活動をしているアワフン民族のホセさんが、彼のお姉さんが住んでいるというアワフン民族コミュニティーへと案内してくれた。ペケペケでマラニョン川を走る。ボートを降り森の中を歩くと、黒く焼けた地面を露にする焼かれたばかりの畑、たわわに房を実らすバナナ畑が現れる。この辺りでは焼畑で開いた畑にバナナ・カカオ・ユカ芋・パパイヤ・マンゴーといった熱帯の作物を栽培している。特にカカオは数少ない現金収入を得るものとして力が注がれている。やがて小さな沢を渡ると一〇軒ほどの家が立ち並ぶ集落に辿り着く。家々は、カーニャブラーバというサトウキビに似た植物を壁に、ジャリーナの木の葉を編み屋根にする。ここも含め多くのコミュニティーは家族単位で集落を形成しているという。ホセさんのお姉さんの家に辿り着く。お姉さんは私の存在に初め戸惑っていたようだが、蒸かしたユカ芋と一口大に切り分けたサトウキビを皿に盛って差し出してくれた。久しぶりに会うという姉弟の周りに次第に人が集まる。アワフン語で話される彼らの会話は私には分からないが、その独特のリズムと時折はさまれる笑い声はゆったりとした音楽のように聞こえた。

 ほぼすべての人がスペイン語を話すが、同民族の間では民族の言葉が話される。コミュニティーにいる限りスペイン語を話す必要がなく、外に出る機会の少ないお年寄りは日常的に使うことがないようだ。ナサレというコミュニティーで暮らす八九歳になる男性は、「私はあまりスペイン語が得意じゃなくてね」と言う。また、彼の父親の世代では全くスペイン語は使われなかったと言う。しかし子供、孫の世代となるとスペイン語とアワフン語をその場に応じて使い分けている。

 ゆっくりとした時間が流れている。広場では子供たちが完全に日が沈んでボールが見えなくなるまでサッカーをしている。日が沈むと、懐中電灯の光が路上を行き交う。このコミュニティーには電気、ガスが来ていない。ここだけではなく、ほとんどのコミュニティーも同じ状況だという。薪で熾した火で料理をし、懐中電灯・蝋燭の光が家の中で人を照らす。畑で作物を栽培し、豚・鶏を飼育し、川で魚を獲る。小さい雑貨店はあるものの、ほぼ自給自足の生活を送っている。アマソナス州政府が発行する観光案内はセルバを「雄大な自然」「伝統的な生活」と謳う。

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日が暮れるまでサッカーボールを追う子供たち。

 しかし、そこには人々の日々の暮らしがある。ここで暮らす若い男性と話していると、「私たちには収入を得る手段がない」と言う。ここでもっとも多く栽培されているのがバナナだ。しかし、交通手段の限られるここには買い付け業者が定期的には来ない。数ヶ月来ないときもある。更に一〇〇本一ソル(一ドル=約三ソル)という安値で買い叩かれている。最も値段の良いカカオでも、一キロ四ソルだという。引き取り手のないバナナは自分たちで食べる以外捨てられる。売りに行くにも、最も大きな町バグアまで船と車で半日近くかかる上、多量の物を運ぶ手段・費用がない。「とにかく作物を作っても売る相手がいない」と嘆く。多くの人が病気・怪我をしても現金がないため、病院のある場所まで行くことがままならない。ニエバというセルバの町の病院で働いていたジャネさんは、毎日ボートで各コミュニティーを巡回診療していた。しかし、病院に人手は足りず、十分な設備・薬もない。政府に支援を求めても全く無駄だった。コミュニティーの男性は、「政府は私たちにこれまで何もしてこなかった。電気もガスもないこの状況を見れば分かるだろう。更に住む場所まで奪おうとしている」と声を荒げる。

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軒先で火を起こすアワフン民族の女性

 
3.先住民族の蜂起

 ペルー政府はこれまでセルバの住民に対してほとんど関心を払ってこなかった。その一方で石油・天然ガス等豊富な資源が眠るその地域に対して「国の発展」を掲げて開発を進める。「リマ(政府)にとって、ペルーとはリマ、リマこそがペルーなんだ」とACID のホセさんは話す。いったい発展とは何なのか。

 六月五日の事件は、ペルー政府が米国政府との自由貿易協定発効に向け数十の法令を公布したことに端を発する。先住民族コミュニティーの土地所有権、生活の場であるセルバの自然環境に非常な影響を及ぼす恐れのあるこれらの法令が、当事者である人々の頭越しに決められていく。これに対して二〇〇八年八月よりセルバ複数の州で先住民族による抗議行動が始まった。一旦は非常事態宣言が出されるまでになるが、後、セルバ各州に暮らす先住民族の全国組織であるAIDESEP(ペルーセルバ開発民族連合)の代表と国会の間で合意がなされ、数十の法令の中でもコミュニティー所有地の譲渡に関る法令一〇一五と一〇七三が撤廃され一応の収束を見た。

 二〇〇九年に入り、AIDESEP は更に九つの法令の撤廃を要求する。二〇〇九年四月九日より再び、先住民族による抗議行動が始まる。アマソナス州ではバグア市近郊の幹線道路が封鎖された。
 
 二ヶ月に及ぶ抗議行動にも政府による対応は進まなかった。そして六月五日を迎える。


4.六月五日の衝突

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六月五日、現場の丘で腹部を銃弾が貫通した。二回の手術をおえ三回目の手術を待っているワンピ民族のサンチアゴさん。


 事件後、「バグア悪魔のカーブ(CurvaDiablo de Bagua)」と呼ばれるようになった現場は、マラニョン川と並行するように一直線に走る道路が、そこだけ小高い丘に沿ってS 字にカーブを描く。乾燥しきった丘の斜面には二メートルほどの細木が点々と茶色の地面を露わに立っている。二〇〇〇人から多いときで四〇〇〇人もの人々が、二ヶ月間にわたってここに寝泊りをしていた。事件後二ヶ月がたった八月初旬、丘の斜面には当時使っていたと思われるプラスチック製の皿やフォークが散乱していた。川沿いの茂みには警官隊によって発砲されたガス弾・銃弾が今も散らばり、それを拾う人達の姿があった。

 丘を望む場所に暮らす女性は、当日を振り返り、「丘の斜面や道路には沢山の人が横たわっていた。それが死体なのか怪我人なのかは分からないが、とにかく沢山の人がそこら中に横たわっていた。」と言う

 またその日、道路脇で寝ていたサンチアゴさんは、早朝五時過ぎに騒がしい人の声で目を覚ました。すると丘の中腹で続けざまに銃声がなった。逃げる人達が目に入る。彼自身も丘へと登った。そのときに腹部を銃弾が貫通し倒れた。丘には一〇〇〇位の人達が寝ていたと言う。

 抗議行動が始まってからほぼ二ヶ月間そこに寝泊りしていたという女性も道路沿いに寝ていた。早朝五時半頃、丘の上のほうで銃声がなりだす。六時過ぎごろ上空にヘリコプターが飛んできて、そこからも発砲してきた。しばらくすると幹線道路の両方向から警官隊が現れる。あたり一面に催涙ガスが立ち込め、銃声が響きわたる。「動物でも撃つようだった」と言う。

 当時、アマソナス州セルバのペトロペルー第六石油施設を望むコミュニティー、クス・グランデには八〇〇〇人あまりの先住民族が集まっていた。バグアからの知らせを聞くと群衆が施設を警護していた警察官を襲い殺害する。

 現地には六月五日から十日にかけて夜間外出禁止令が出される。幹線道路の交通の往来はあるものの、現場となった丘には警察が入り、その他一切の立ち入りが禁止された。

 後に、政府による事件の調査結果が発表された。死者三四名(警察官二四名、先住民族一〇名)行方不明者、警察官一名。

 しかし、いまだ相当数の人々がセルバのコミュニティーに帰っていないとの報道もあり、先住民族側の死者・行方不明者に関しては、深い疑問がもたれている。

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六月五 日の現場を訪れる被害者の遺族。 事件から一か月後、犠牲者を追悼するため、丘に十字架が立てられた。


5.セルバの声

 近年、三・四世代の間でアマソナスのセルバではスペイン語が行き渡ったという。それ以前の何十と言う世代を生きてきた人達から比べると大変な変化を意味するだろう。外との関りと言う必然性がなければ、ここまで普及することはなかったように思う。次々に持ち込まれる新しい価値観は日々の生活を変えていく。目に見えて加速していく変化の中で、土地の所有や民族の文化に対する意識など、個人・社会の葛藤はより深くなっている。それでも世界的な変化に比べればまだ緩やかなものかもしれない。しかし、そこへ今「資源の争奪」と言う人間の欲望をむき出しにした、現在の世界を覆っている価値観そのものが巨大な資本を伴って目の前に現れる。「世界」「国」というほんの一部の人間の持つあまりにも大きな力の前に、蝋燭を節約した暗がりの中で話される人々の悩みはあまりにもはかない。

 生きるということに対する危機感から立ち上がった人々を政府は「テロリスト」と呼ぶ。中央のリマから遠く辺境に暮らす彼らの顔、声はこれまで「雄大な自然・伝統的な生活」と言った観光案内にあるイメージの内側にあり、リマに届くことがなかった。今そのイメージを引き裂いて現れた人々はリマに生きる人々と変わることのない同じ人間だ。しかし、国は憤り訴えかける人間の顔・声に対して「動物に対するように」銃弾を浴びせた。そして「テロリスト」と言う言葉で、現れた彼らの姿を再び隠そうとする。

 しかしそれを今、真に受ける人がいるのだろうか。

 六月五日の映像はすぐさまインターネットで世界へ飛んだ。地元バグアではDVD となって市場で売られている。ACID のホセさんは言う。「今回の事件で世界の目がセルバに向いた。こんな形によってだが、今までになかったことだ。」

 天然資源というほぼ全ての人間にとって共通の問題を前に語られる「国」とは、「世界」とは誰を指すのか。「私たちだってペルー人だ」と言う人々の「ここで生まれた。だからここで死にたい」というささやかな願いは、強い光を持った世界を形作る一部分である。そう考えるのは理想的過ぎるのだろうか。

 セルバの深い木々の間から人々の声が溢れ出した今、その声にどれだけの人達が耳を傾けられるのか。その声がより遠くへと響くほど、人間は新たな可能性を見出せるのではないか。

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セルバで暮らすアワフン民族の女性。彼女は足を痛めるが、病院へ行く交通費がない。

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カーニャブラバで組まれた家に、ジャリネの葉で屋根を葺く。

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水辺で遊ぶ、アワフン民族の子供たち。



※小見出し3「先住民族の蜂起」で一連の経緯を、筑波大学大学院(当時)・岡田勇氏が、先住民族の一〇年市民連絡会発行『先住民族の一〇年News』第百五十六号に寄稿された「ペルー先住民族のアマゾン蜂起」を参考に致しました。
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「ペルー先住民族アマゾン蜂起 「バグアソ」の現地を訪ねて」 (「先住民族の10年News 第167号」先住民族の10年市民連絡会)

バグアソから一年の2010年6月に現地を訪ねました。
前回の記事からの続きになります。
(「先住民族の10年News 第167号」先住民族の10年市民連絡会発行 )

ペルー先住民族アマゾン蜂起 「バグアソ」の現地を訪ねて

2010 年6 月5 日、焼けるような強い日差しの下、ペルー・アマソナス州バグア市郊外に1000人を超える人々が集まった。ちょうど1 年前の2009 年6 月5 日、この場所で、セルバ(アマゾン熱帯雨林地帯)に暮らすアワフン、ワンピ両先住民族と軍・警察の間で激しい衝突が起きた。ペルー先住民族のアマゾン蜂起、後に「バグアソ」と呼ばれるこの事件は、死者34 人(警察25 人、先住民族9 人)、行方不明者1 人、200 人を超える負傷者を出す。セルバ地方の資源開発を進める政府の一方的な法令制定に抗議した、2 カ月にも及ぶ住民による道路封鎖の最中の事件だった。(本誌第156 号に関連記事あり)

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バグアソの現場となった丘から、セルバへ走る幹線道路を眺める


1.2009 年7 月、事件後のバグアへ

 昨年(2009年)、事件直後に現場の映像をYouTube で目にする。ヘリコプターが飛び交い、大勢の兵士、警察官、抗議に参加していた人々の怒号、鳴り響く銃声、血を流し引きずられる人々が映し出されていた。これは戦場ではないか。映し出さ
れる映像が信じられなかった。その時点では、抗議する先住民族に多数の死者・負傷者が出ており、軍は死者を隠すためヘリコプターで森へと運び捨てているのではとの情報も流れ、警察側にも多数の死者が出ているということだった。2 カ月に及ぶ抗議行動の末のあまりに苛烈なこの事件を私はどうしても信じられなかった。

 何故?という思いが日に日に強くなり、事件後の昨年7 月末に現場へ向かう。現場に立つことで分かることがあるのでは
ないか、そんな気がした。ひと月ほどバグア、セルバの村々を歩き、事件に関わった人、抗議を起こした先住民族の暮らし
を目する。私がそこで目にしたのは、外部から押し寄せる波に翻弄される人々の姿だった。

 アマゾンへと続いてゆく大河、マラニョン河に注ぐいくつもの支流に、当事者であるアワフン、ワンピ両民族のコミュニティー
が点在している。唯一の交通手段のボートで、あるコミュニティーを訪ねると、器一杯のマサト(ユカ芋の発酵酒)と、畑で採れたユカ芋を蒸かし、切り分けられたサトウキビで招かれる。ジャリネの葉で葺いた屋根と竹に似たカーニャブラバを組んだ家、飛び交う民族の言葉、ほぼ自給自足と言えるその暮らしは、外の世界とは明らかに違ったリズムで時間が流れている。私
には、ここはここでの暮らしが成り立っているように思えた。その夜、蝋燭の明かりの中でコミュニティーの人たちと話をした。ここには電気が来ていない。

 彼らは静かに現状を訴えた。お金がないため体調の悪い家族を病院へ連れて行けない、換金作物を作っても運搬手段・費用がなく、不定期にやってくる買い取り業者に安く買い叩かれる、いまだに電気がない――。国に顧みられることのなかった人々の声だ。しかし今、「国の発展」を掲げる政府は、セルバに眠る地下資源に目をつけた。彼らの目にはセルバで生きる人々の顔は映らない。次第に声が熱をおび始めていく。漠然とした世界的な力が、開発という形で突然自らの生活を脅かす存在として現れた。「リマ(ぺルーの首都)だけがペルーじゃない」「ここで生まれた、だからここで死にたい」吐き出される言葉に、彼らの怒りを感じた。

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ペルーのアマゾン蜂起「バグアソ」の現地を訪れて出会ったアワフン民族の子どもたち。


2. 2010 年、事件から1 年後のバグアへ 

(1)「バグアソ」1 周年

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バグアソの現場となったカーブに建てられた看板には、「ESPERANZA(希望)」の文字が大きく書かれている。

 あれから1 年がたってなお、私の頭にはあの衝撃的な映像が残っていた。ペルーではILO169号条約に基づき、先住民族に影響を及ぼす行動を起こす場合、事前に当事者である先住民族との協議を義務化する法案が議会で承認される(後、大統領の意見書付きで国会へ差し戻される)。

 人々は事件を乗り越え前に進んでいるように思える。しかし、バグアソはもう過去のものになってしまったのだろうか。私にはどうしても整理できない。あの映像から伝わる、異様な熱は一体何なのか。セルバの人々にとってあの事件とは何だったのだろうか。とにかくもう一度現地へ行かなければと思った。1 年後の様子を見るため、再びバグアへ向かった。

 6 月1 日、夜行バスで早朝のバグアに着く。空は曇り湿気に包まれている。私はそのまま現場となった地点に行くことにした。幹線道路を走る車を拾う。「現場となったカーブへ行きたい」ことを告げると、隣に乗り合わせた男性に話しかけられる。「この1 年で何が変わったのか。なにも変わってはいない」。街に暮らすその男性の言葉に憤りが感じられた。彼は6 月5 日に大きな集会が開かれると教えてくれた。

 現場となった場所はバグアから20 分ほどの所にある。マラニョン河に沿って直線に延びる幹線道路が、小高い丘を包むようにカーブを描く。CURBA DIABLO DE BAGUA(バグア悪魔のカーブ)と呼ばれるこの一帯に、2000 人から多い時4000 人もの人々が2 カ月にわたり寝起きしていた。数日前に建てられたという路肩の看板には、キリストの絵とともに、CURBA DE LA ESPERANZA(希望のカーブ)と書かれており、人々が寝起きをしていた丘の斜面には、昨年も目にした抗議活動をしていた人たちが使っていたという、プラスティック製の食器が、朽ちた姿で散在していた。

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6月4日、警官隊に囲まれながら現場となった丘を目指す人々。

 6 月4 日の夜、バグアと現場の中間地点から現場となったカーブへ行進が行われた。スタート地点には大型バス2 台で乗り付けた、武装した警官隊が待機していた。アマゾン北部の先住民族組織ORPIAN を中心とした数十人の人々の間に、警察が行進を妨害するのではと緊張が高まる。「我々はあなたたちの護衛に来た」という警官隊が、行進する人々の両側を
挟み行進が始まる。無言のまま闇の中を黙々と歩いて行く。まっすぐ前を見つめ行進する人々の目に両側を歩く警官隊はどのように映ったのか。事件後1 周年を控えたこの日に、武器を持った人間をよこすその考えが理解しがたい。

 1 時間ほどで現場となったカーブに着くと、数百人の人々が行進の到着を待っていた。そこで蝋燭が配られ犠牲者に祈りがささげられる。

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現場の丘で黙とうが捧げられた。


 6 月5 日、青空のもとでバグアソ1 周年の集会が開かれた。ペルー各地より地域の指導者が集まり、バグアソの後ニカラグアへ亡命し、5 月26 日に帰国したアルベルト・ピサンゴ氏(AIDESEP〈ペルーセルバ開発民族連合〉代表)(注)も現場に姿を現した。

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バグアソ一周年の集会で演説をするアルベルト・ピサンゴ氏

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バグアソ一周年の集会に駆け付けた男性。「兄弟であるナティボ(先住民族)のために立ち上がる」と叫ぶ。


(2)葛藤の中で

 1000 人をゆうに超えるであろう大勢の人々の熱気の中で気付いたことがある。この場にいる人たちの中に、本当の当事者であるセルバの人がどれくらいいたのか。全員と話したわけではない。しかし、私が声をかけた人はハエンやバグアといった街に暮らす人々で、そのほとんどは街で生まれ育った人だった。彼らは「セルバの兄弟のために立ち上がる」と言う。多くの人たちはバグアソに憤り、政府の対応に不満を持っている。しかし、街に暮らす人々と、セルバに暮らす人々の間にはっきりと言
葉にはできないが、微妙な距離が感じられた。セルバに暮らす人々の間でもメスティーソ(混血)とナティーボ(先住民族)の間で距離がある。実際バグアソについても、セルバで先住民族コミュニティーの近くに住むあるメスティーソの若い女性は「あれはナティーボの問題だから」と関心は薄い。そう話す人がいるのも事実だ。近くに暮らしながらも、別々の生活・文化圏で暮らす両者の間にははっきりと壁がある。

 集会の後、車で行けるセルバ最奥の町ニエバに3 日間滞在した。そこで出会ったアワフンの男性が彼のコミュニティーへ招待してくれた。ニエバは地域の交易の中心をなし、住民の多くはメスティーソだ。ニエバから徒歩で15 分足らずのコミュニティーは、ニエバとは別の文化圏を成す。スペイン語を話すその男性もそこでは民族の言葉を使う。彼の家で昼食をよばれた。
燻製にしたイノシシの肉と、蒸かしたユカ芋を私に差し出しながら「質素だけどうまいぞ」と自嘲気味に笑う。そして、コミュニティーに電気・ガスがないこと、ジャリネの葉・カーニャブラバで組まれた家を指し、自分たちの生活は貧しいとこぼす。それは外部の人間が「伝統的な生活」と憧れや珍しさの目で接する風景だ。彼は町の生活と自分たちの暮らしを比較しているの
かもしれない。しかしその一方で、午前中で仕事を切り上げ、自家製のマサトで私をもてなし、小鳥に口移しで餌をやりながら、「リマの人間は、ナティーボは怠け者だと言う。だが、ここにはここの生き方がある」と強い口調で言う。これまでの生活と押し寄せる別の価値観の中で、自分自身の価値を見失いそうになる人々の姿がある。ここにも彼らの葛藤があるように思えた。

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仕事を途中で切り上げ、私をもてなしてくれた男性は「ここにはここの生き方がある」と憤った。


3. 終わりに

 バグアソでマグマのように溢れだした熱の意味を、私はまだ理解することができないでいる。いくら当時の様子を聞いても、分かった気にはなるが、自分の事として置き換えることができない。バグアソとは何だったのか。当事者である人々を理解していない私が、それを結論付けることはできない。それでも、人々の思いがどこにあるのかを想像したい。そして、もう一度現地に足を運びたいと思う。

 国益を掲げ開発を進める政府は、セルバの人々の抱える思いをどう受け止めようとしているのだろう。国とは何か。彼らもまたペルーに生きる人々なのだ。 

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アワフン民族コミュニティーにて。外部の価値観が、彼ら自身のアイデンティティーを揺さぶる。

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大河を小舟が行く。家路につく人々。

(注)ピサンゴ氏は、8 月11 日、先住民族による政党を結成し、2011 年の大統領選に候補者を立てる予定と発表した。(AFPNews より)

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PERU BAGUA

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ペルー アマゾン

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去年の7月末にペルーのアマゾン地方に行ってきた。 
アマゾン熱帯雨林地帯を向こうではセルバ(SELVA)と言う。
そこにはアワフン、ワンピという民族が暮らしている。

そのセルバへ行く手前にハエン(JAEN)という町がある。本当はバグア(BAGUA)という町に行くつもりが、初めての土地でどこがバグアかわからなかったので、バスの隣の席の人にバグアに着いたら教えてと言っていた。着いたぞと教えられ降りたところがハエンだった。バグアの手前3時間位のところ。夜着いて、次の日のまで気づかなかった方も気づかなかった方。

せっかく来たので、これから行くセルバの手がかりは何かないかと博物館に入ったら、これに出会った。ちょっと詳しいことは忘れてしまったけれど、セルバのどこかで発掘されたものらしい。土を掘っていてこれが出てきたらたまらないだろうなぁ。
ペルーのセルバにはこういう人たちが住んでいるんです。 

博物館では、やはり発掘された祭祀に使われていた酒壺に本当に酒が入っていて、何杯か飲ませてくれる。その酒は土地の酒(ユカ芋で作るマサト)ではなくラムだった。たぶん客に勧めながら自分も飲む案内係の好みかなとも思う。

来週末からもう一度ペルー・エクアドルに行ってきます。7月帰国予定です。

ご連絡はdaisuke.pp@gmail.comまでお願いします。

柴田

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マラニョン川で遊ぶ子供たち マラニョン河はのちにアマゾン河へと名前を変えブラジルへと続く ペルー・アマソナス 
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太陽が沈みきるまでサッカーをする子供たち。マラニョン河周辺にはアワフン民族・ワンピ民族のコミュニティーが点在している。 ペルー・アマソナス   
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