紛争と原発事故 (「ジャーナリスト」第648号)

JCJ(日本ジャーナリスト会議)発行の「ジャーナリスト」第648号にコロンビアの紛争によって故郷を追われたある老人についての記事を寄稿しました。

以下に転載します。
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紛争と原発事故  

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早朝、一杯のコーヒーを飲むフベナルさん。(コロンビア・ナリーニョ県クンバル市 2011年12月撮影)


高地の風が冷たく、吐く息が白む。紛争避難民となったフベナルさんはコロンビアの南部、標高3100メートルの町で妻と長男の3人で支えあい暮らしている。10年前、激化する紛争から逃れるため、故郷から約100キロ離れた人口2万2000人の町にバック一つを抱えて避難した。彼は現在80歳を超えている。
 
パスト民族のフベナルさんは20代前半で結婚。肥沃な土地を求めて、アンデス山中の温暖な地域の集落に移住した。山を開墾し、4人の子供を得て、住民が家族のような社会で穏やかな生活を50年近く営んできた。
 変化は1990年代前半。麻薬目的のコカ栽培が現金収入の乏しい地域に確実な収入源として広がった。現在、コロンビアで国内紛争の大きな要因となっている問題だ。
政府の影響力が弱い農村の一帯に、コカ生産地を押さえようと武装勢力が入り込む。住民は対立する武装勢力の間に挟まれ暴力が日常化していった。山々に銃声が響き、集落の周囲には地雷がまかれた。
 
フベナルさんは長く地域の先住民族指導者として活躍してきた。1996年、自分の暮らす集落を一定の自治権を持つ先住民族領域として国に登記し、初代の首長を務める。彼にとって年齢的にも残りの人生をかけた大仕事だったはずだ。コカ栽培に対しては「悪魔の作物」と呼び距離を置いた。しかし、自ら築き上げた居場所を暴力が奪った。
 フベナルさんら高齢者にとって、アンデス山中の農村での暮らしは生き方そのものだった。「再びいつか、自分の土地で(主食の)ユカ芋を作りたい」。わずかな望みが生きる糧となっている。
 
東日本大震災で日本で同じような状況が生まれた。紛争と原発事故。原因は異なっても、個人の身に起きることに変わりがない。
フベナルさんに聞かれた。「日本には戦争はないんだろ? お前はいい国に暮らしてるな」。今の日本を知らない彼に、どう答えていいのか分からなかった。
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紛争と先住民族 コロンビア・ナリーニョ県(先住民族の10年NEWS第182号)

アイヌ民族を中心に、世界の先住民族の情報を発信している「先住民族の10年市民連絡会」 の機関誌にコロンビアで紛争が原因で故郷を追われた人々の記事を寄稿しました。

一部表現を訂正し、以下に転載します。
読んでいただけたら嬉しいです。
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紛争と先住民族 コロンビア・ナリーニョ県


パスト民族のマヌエル・アサさん(56)は2002 年、紛争が続く故郷コロンビア・ナリーニョ県から家族とエクアドルへと渡った。以来、難民として生活を送っている。ナリーニョ県はコロンビアの南西部に位置し、エクアドルと国境を接している。
 コロンビアでは、1960 年代から続く内戦の影響から住む場所を追われる人々が後を絶たない。90 年代以降、対立するゲリラ・右派民兵組織が麻薬取引から資金を得るようになり、原料のコカ栽培に適したナリーニョ県の温暖な地域が紛争に巻き込まれていく。武装組織が活動する山間部に先住民族コミュニティーが点在する。暴力により土地を追われる先住民族がいる。

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マヌエルさんとエステリさん夫妻。先の見えない難民生活の中、寄り添い生きている。(エクアドル・カルチ県 2011年12月撮影)

1. 難民訪問

 2011 年12 月、エクアドルに暮らすマヌエルさんを訪ねた。
 エクアドル北部カルチ県の、標高1000 m付近にアレナルという集落がある。そこにマヌエルさんは妻のエステリさん(47)と甥の3 人で暮らしている。
 エステリさんの後をついて、山で働くマヌエルさんの所へ向かった。茂る草木の間の小道を歩いていると、木の倒れる音が響いた。日差しが強い。「よく来たなぁ」。マチェテ(山刀)を持つ汗だくのマヌエルさんが、爽やかな笑顔で立っていた。生い茂る木々を切り倒し、トウモロコシの種をまこうと畑を開墾していた。
 この地域には、およそ30 家族の難民となった人々が暮らしている。彼らのほとんどが同じコミュニティーに暮らしていたナリーニョ出身者だ。風土が故郷と似ていることもあり、地縁を頼って集まってきた。
 私は2007 年、「難民」の暮らしを知るために彼らを訪ねた。その時マヌエルさんとも知り合い、以降、毎年訪ねるようになった。

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母親代わりの叔母に髪をとかしてもらう難民の少女。(エクアドル・リタ市 2011年12月撮影)

 
2. 故郷の暮らし

 マヌエルさんは、1956 年、コロンビア・ナリーニョ県のクンバルで生まれた。クンバルは標高3100 mの高地にある。ジャガイモやソラマメの栽培が盛んだ。人口約2 万人の町にはパスト民族が多数暮らしている。
 彼は幼くして、同じナリーニョ県のマグイというアンデス山中のコミュニティーに家族と移住した。マグイには、アワ、パスト、2 つの民族が隔てなく生活していた。エクアドルへ来るまで人生のほとんどをマグイで過ごした。
 マグイで最初の夫人との間に3 人の息子を授かった。事故で彼女を亡くした後、現在の夫人であるエステリさんと一緒になる。彼女はマグイ出身のパスト民族だ。エステリさんとの間に1 男1 女が生まれた。
 彼は、1 年を通して温暖な気候のマグイで、サトウキビや主食のユカ芋・バナナ・トウモロコシなどを作っていた。収穫があると家族が食べる分を残し、アルタケルという町の市場へ馬で8 時間かけ作物を売りに行く。売ったお金で塩や油、その他の生活用品を買って戻る。そこで酒を飲むのも楽しみだった。飲みすぎて寝てしまっても、道を覚えている馬に乗っていれば安心だったという。
 コミュニティーは、日本の農村の「結」にも似た「ミンガ」と呼ばれる協働作業が営まれていた。家を建てる、道路を整備する、そういった作業に各家庭から人手を出し合った。1996 年に、リカウルテという市の一部であったマグイが先住民族領域として国に登記されると、法的に一定の自治が認められたが、それ以前もカビルドという住民による評議会が中心となり、1つの家族のように共同体が運営されてきた。

3. コロンビア・ナリーニョ県の現状

  1990年代に入り、麻薬の原料としてのコカ栽培が地域に広がる。コカは手間がかからず安定した収入源となることから、人々はそれまで栽培してきた作物から転作していった。もともと政府の影響力が弱い地域に、コカの生産地を抑えようとする武装組織が入り、住民が間に立たされていった。
 マヌエルさんは2002年にマグイを去った。
 当時マグイでは周辺では、山間に潜伏するゲリラ部隊と軍の戦闘が日常化していた。また、ゲリラとの繋がりを疑われ、敵対する民兵に殺害される住民がいた。
 更にある時期から、軍・民兵の侵入を防ぐためにゲリラが山に地雷をまき始めた。町へのビル一本の道にも、地雷が仕掛けられた(これは夜間のみで朝になると撤去されたという)。地雷の犠牲者が相次いだ。マヌエルさん自身、危うく地雷を踏みそうになったことがあったという。畑に行くことすら難しく、もはや日常生活を送ることが困難になっていた。
 安心して生活する場所を求めて、彼は家族とマグイを去る決断をした。
 コロンビアで地雷被災者に対する救援プロジェクトを進めるJICA(独立行政法人国際協力機構)によると、コロンビア国内全32県のうち、実に31県に地雷が埋設されているという。2005年における地雷による年間の死傷者数は、1110人と世界最多となっている。2000年に対人地雷禁止条約(オタワ条約)を締結以降、政府として地雷対策を進めてきているが、紛争地帯である山間部は武装勢力の力が強く、撤去作業に手を付けられない。更に、依然として新たな地雷がまき続けられている。
 昨年12月中旬、私はコロンビア・ナリーニョ県のアルタケルという町を訪ねた。ここには紛争が原因で避難民となったマグイなどのコミュニティー出身者が多数暮らしている。滞在中、マグイに暮らす62歳の男性が亡くなったという知らせが届いた。彼はこの3か月前、畑に向かう途中で地雷を踏んだ。右手右足を失い都市の病院で治療を受けていたが、この日亡くなってしまったのだ。葬儀はアルタケルで、マグイ出身の仲間たちの手で執り行われた。泣きながら子どもたちが棺にしがみついていた。「働くのが好きな、いい男だった」。彼の仲間がそう話す。
 亡くなった男性は一度もマグイを離れずに暮らし続けてきたが、大部分の住民が避難し無人に近くなったこともあったという。しかし最近は、避難先で生活基盤を築けず、危険を承知で故郷に戻る人が増えている。
 以前エクアドルで知り合った元難民の男性と偶然アルタケルで会った。彼は2007年から2年間エクアドルで難民として暮らしていたが、仕事がなく、コロンビアに残してきた家族の心配もあり、2年前にコロンビアへと戻ってきた。今は、彼の生まれ故郷の集落で息子たちと暮らしているという。時折、山に銃声が響く。地雷の心配もある。しかし、「自分の土地で好きな作物を作れることが嬉しい」と話した。毎日畑に出ているのだろう。エクアドルで見たよりも引き締まり、いい顔つきをしていた。

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地雷で亡くなったアワ民族の男性の葬儀を同郷の仲間が執り行った。(コロンビア・ナリーニョ県アルタケル市 2011年12月)


4.不安定な生活の中で

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「この家が建てられれば、バラバラになった家族がまた一緒に暮らせる」。避難先で資金が足らず建設途中になった家の前に立つ避難民の男性。(コロンビア・ナリーニョ県アルタケル市 2011年12月撮影)

 マヌエルさんを訪ねたのはこれで4度目になる。訪ねる度に彼の住む場所が変わっている。これまで地元の人の家に部屋を借り、農場の日雇い仕事で食いつないできた。居場所が変わるのは、家主の都合か他によい仕事が見つかった時だ。
 昨年からは、長く放置されてきた農場の管理を条件に、地主から無料で家を借りた。賃金はないが、自力で土地を開き好きな作物を栽培していいのだという。「土地が広すぎて人手がほしい」。嬉しい悩みも口にした。しかし、これで将来が安定したわけではない。この場所に住むことを1年間保証されているが、その後は地主の状況次第で、いつ出ることになるかわからない。
 以前、ある人がマヌエルさんたち難民を指して、「彼らは山しか知らない」と言った。マヌエルさんの子どもたちは、仕事を見つけ根を張ろうとコロンビアやエクアドルの他の町で暮らしている。若ければ生活を変えることもできる。しかし、マヌエルさんは50年以上、山で土を耕し生きてきた。これが彼の生き方なのだ。
 ある晩、特別な日以外めったに酒を飲まないというマヌエルさんが、ほろ酔いで帰ってきた。
 「お前はマグイに行ったことがあるか?ないだろ?あそこはうまいチャピル(サトウキビの地酒)が飲めるんだ。ここにもあるが駄目だ。全然うまくない。あれが生まれたのはクンバルだ。そこから2日間歩くとマグイに着く。その間にいくつか集落がある。どこに行っても、うまい酒が飲めるんだ」。
 何があったのだろう。彼は熱心に故郷のことを話し出した。その眼はどこか悲しげに感じた。エステリさんは黙ったまま、優しくマヌエルさんを見つめていた。
 
 二人がエクアドルに来て、もうすぐ10年が経とうとしている。次に私が訪ねた時、2人はどこにいるのだろうか。先の見えない生活が続く。

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紛争から故郷を逃れ、孫と3人で暮らす避難民家族。(コロンビア・ナリーニョ県アルタケル市 2011年12月撮影)

「故郷を求めて あるコロンビア難民の死」 (SONRISA vol.135 掲載)

グアテマラを中心に、中年米へ支援活動をする「日本ラテンアメリカ協力ネットワーク」が発行する「SONRISA」に、昨年12月に訪ねた、エクアドル、コロンビアに暮らす難民・避難民となったコロンビア人の友人たちの記事を寄稿しました。

許可を得て、ブログに転載させていただきました。


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故郷を求めて -あるコロンビア難民の死



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ルイス・フェリペ・タピアさん。この一ヶ月後、彼は突然仲間の元を去った。2011年7月エクアドル・リタ市



 コロンビア南西部のナリーニョ県に、深い山々に囲まれたアルタケルという町がある。熱帯の木々が山肌を覆う。町の墓地に1人の友人が眠っている。46歳で最期を迎えたルイス・フェリペ・タピアさん。9年間、エクアドルで難民として暮らしてきたコロンビア人だ。
 コロンビアでは40年以上内戦が続いている。近年では麻薬を資金源とする左翼ゲリラと右派民兵組織、政府軍の間に農村が巻き込まれ、300万人以上の国内避難民、50万ともいわれる難民を出している。ナリーニョは現在、もっとも暴力の激しい地域のひとつであり、エクアドルへ難民化する人々が後を絶たない。

 昨年12月中旬、私は彼の母親ラウラさん、兄のヒルベルトさんに案内され、アルタケルの墓地へと向かった。灰色の雲が空を覆う、肌寒い午後だった。前夜の雨にぬかるむ道を、2人の後ろについて歩く。
 入り口の古い門をくぐり、奥へと進む。やがて彼の名が刻まれた墓碑の前で立ち止まった。棺が納められたコンクリート製の墓はレンガによって封がされていた。1人ずつノックする。「オーラ(やあ)」。そう声掛けるように。周囲の雑草を丁寧にむしる、年老いた母親の横顔を見つめていた。摘んできた花と、彼が好きだったコロンビアのビール「ポケル」を添えた。ルイスさん、コロンビアに帰ってきたんだね。

 9月初め、彼の息子で同名のルイスから日本にいた私にメールが届いた。
「ダイスケ、元気でやってるか?こっちはよくない事が起きたんだ。父が殺されてしまった。皆悲しんでいる」
 文面はあまりに短く、その内容に戸惑った。私は何度も読み返した。もし事件だったらと思い、ネットでエクアドルのニュースを検索した。現地の新聞に、彼の死を知らせる記事が載っていた。8月21日、彼が暮らしていたエクアドル北部の町リタで、祭りの最中、何者かによって銃で撃たれて亡くなった。犯人は捕まっておらず、原因は分かっていないとある。
 本当に死んでしまったんだ。その事実に実感が伴わない。すぐに悲しみは湧かなかった。

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ルイスさんの墓を参る兄のヒルベルトさん。2011年12月コロンビア・ナリーニョ県




 出会い 2007

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コロンビアに暮らすルイスさんの家族。彼らも故郷を追われ避難民として厳しい生活を送る。(左から・父親フベナルさん・母親ラウラさん・兄ヒルベルトさん)2011年12月コロンビア・ナリーニョ県


 ルイスさんは、リタとその周辺に暮らす難民グループのリーダーだった。リタはコロンビア国境に近い山間の小さな町だ。ここに彼と同郷から移り住んだ難民が暮らしている。多くが先住民族アワの人たちだ。彼自身はパスト民族だが、アワ民族のコミュニティーで生まれ育った。共通する土地の記憶が彼らを結び付けていた。
 私は2007年12月、現地で活動する教会組織の紹介で初めてルイスさんと出会った。以来、彼らの生活を知りたくて毎年訪ねていた。彼は当時、リタから車で5時間余りの首都近郊の町に家族と暮らし、仕事の合間にリタへ通っていた。

 彼と私は不思議と気があった。もしかすると私が一方的に感じていただけかもしれないが、人間味が溢れる彼が好きだった。彼を通じて沢山の人たちと知り合った。1人ひとりが個性的で、真剣に生きながらもどこか温かい可笑しさを持っていた。何度でも会いたくなる人たちだ。
 角刈りで真っ赤なシャツを着たルイスさんは、小柄だが、がっちりした体格をしていた。握手の途中でギュッと力を込めるのが印象に残っている。話を聞きたいという私に快く応じてくれた。
 故郷を離れた人々は、全てを手放しここに来た。長い人で10年近く経つ。その多くが日雇い仕事に従事し、未だ生活基盤を築けずにいた。
 ルイスさんが夢を語った。
「自分たちの組織を作りたいんだ。そこで収益を得て、各家庭に分配する。ゆくゆくは大きな土地を買い、コロンビアで暮らしていた時のようにコミュニティーを作りたい-」

 

 再訪 2009

 2009年に訪ねると、彼は家族と離れリタに越してきていた。1人で暮らす寂しさを口にしたが、仲間の近くで暮らしながら活動に力を入れようとしていた。
 10日間、彼の家に泊まりながら、家々を訪ね歩いた。
 家具職人である彼が自分で建てた家は、3畳ほどの小屋に、手製のベッドと本棚が置かれていた。板を張り合わせただけの壁は、ところどころ隙間があいていた。それでも、暖かいこの地域では気にならなかった。彼は昼間、屋外の作業場で家具を作る。家に水道はなく、トイレ・シャワーは隣家に借りに行き、食事は近所の友人宅に世話になるか食堂で済ませる。部屋には寝に戻るだけだった。夜はアンテナのないテレビでDVDを見ながら寝てしまう。私も彼と同じ生活を送った。
 私は彼のベッドの隣に寝袋を敷いて寝ていた。私はあまり喋る方ではなかったのだが、彼も家の中では口数が少なかった。自然、沈黙が長くなる。それでも不思議と気を使わずにいられた。お互いに、思いついたことをポツリポツリを口にする。どちらかが先に眠ると、もう一人がテレビを消した。
 ある夜、彼がふと口にした。
「オレはずっと1人だったんだ。仕事も1人でしてきた。今は組織のリーダーをしているが、どうすればいいのか自信がない」
 またこうも言っていた。
「若いころは白人になりたいと思って生きていた。10代で家族から離れ、町で働くようになった」
 若くして家族から自立した彼は、家具職人として各地を渡り歩いていた。
 彼から、先住民族の指導者だった父親であるフベナルさんの話をよく聞いた。「親父は組織の事をよく知っている」。そう話していた。
 パスト民族のフベナルさんは、結婚後、コロンビアのアワ民族コミュニティー・マグイに移住した。山を切り開き、サトウキビやユカ芋などを栽培していた。
 1990年代に、現在の紛争の原因となっているコカ栽培が地域に広がると、栽培の手軽さも手伝い、確実な収入源として多くの人が頼り出す。それでもフベナルさんはコカを「悪魔の作物」を呼び、決して手を出さなかったという。
 1996年には、リカウルテ市の一地区だったマグイを、先住民族領域(レスグアルド)として国に登記し初代首長を務めた。地域の先住民族組織の設立にも尽力した。
 敢えて自分たちを「先住民族の難民」と位置づけたルイスさんは、父親と自分を重ね合わせていたようだった。

 2010年は6月から7月にかけて2週間リタに滞在した。
 その間、変わらぬ生活から何とか活路を見出そうとする難民となった人たちの焦りが伝わってきた。何度か収益を得るためのプロジェクトを立ち上げては失敗を繰り返したという。そのときルイスさんは「あと1年が勝負かな」とも口にしていた。家族と離れて1年が経っていた。活動に行き詰まりも感じていたようだ。「あと1年したら、オレは旅にでる!どこか知らない所へ行くぞ!」。そう冗談めかして話していた。
 帰国が迫り、リタを去る私に彼は、部屋に飾ってあった木製のキリスト像を、大袈裟なくらいゴシゴシ服でふいて「もってけ」と渡した。それが彼との最後になってしまった。

 2011年にリタを訪ねると、私がリタを出た翌月、彼は突然リタを去っていったと仲間の一人から聞いた。手持ちの資材を全て売り払い、太平洋岸の町で金の採掘をしていたという。家族の元へも、亡くなるまで1年近く戻らなかった。死の3カ月前にリタに戻ってきたが、彼はグループの仲間と接触しようとはしなかった。昨年、奥さんのアンヘラにルイスさんの子どもが生まれた。しかし、彼は一度も会おうとはしなかった。

 

祖国を去る日

 昨年12月、帰国までの数日間を、首都近郊の町マチャチに暮らすルイスさんの家族と過ごした。彼らは家具作りで生計を立てている。年末までの注文が立て込み、家族総出で作業にあたっていた。
 ある日の午後、買い物に行くアンヘラさんについて行った。その帰り道、彼女は「彼(ルイスさん)、とってもつらい体験をしたのよ」。と言って、コロンビアを去る原因となった事件について話してくれた。

 ルイスさんは各地を渡り歩いたあと、地元のナリーニョに帰ってきた。結婚してからは、故郷に近いアルタケルで家具作りを始めた。周囲の評便は良かったという。お客さんの中に、町に暮らすゲリラがいた。ゲリラは普段、一般人と変わらぬ生活を送っている。ある時から、家具作りだけでなく、木製の銃床を依頼されるようになった。積極的かどうかは分からないが、彼はそれを作り続けた。これが彼の運命を変えることになった。
 2002年のある日の朝5時、ゲリラに敵対する右派民兵が、町の広場にトラックで乗りつけた。まだ誰もが寝ていた。民兵は銃を打ち鳴らし、怒声をあげる。住民全員が広場へ集められた。民兵たちは住民の名を書いた紙を手にしていた。それはゲリラに協力する人物のリストだった。そこにルイスさんの名前があった。集められた中から5人が呼ばれ、そのままトラックへと載せられた。
 5人は後ろ手に縛られ、どこか遠くの山奥で下された。拷問されたうえで、3人が殺され山へ埋められた。連れ去られてから3日後、ルイスさんが家族の元へ帰ってきた。体中が痣だらけだったという。
 その日のうちにアンヘラさんの両親が暮らす隣町へ、3人の子どもを連れて逃げた。翌日には約300キロ北のカリ市へと向かう。1週間後、家族5人でエクアドルへと渡った。「何もかも手放してきたの」。アンヘラさんが振り返る。
 長男で25歳になるマルティンに、「コロンビアを出た時のこと憶えてる?」と聞いたことがある。彼はしばらく間をおいてから、人差し指を頭にあて「あの日のことは、しっかり憶えている」。そう話すと、それ以上何も語らなかった。

 

彼が残したもの

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兄弟3人で家具を作るルイスさんの息子たち。父から受け継いだ技術で生活を送る。2011年12月エクアドル・マチャチ市


 私はエクアドルに通い出して4年が経つ。その間、同じ人に何度も会っている。それぞれが、会うたびに変化を遂げている。
 これは、ほんの一部ではあるが、私が触れることができた彼らの人生だ。この4年という歳月の後ろに、もっと沢山の時間の流れがある。話で聞くことしか知ることのできない、山のように積み重なった時間の上に、1人ひとりの今がある。それぞれの過去を知る度に、私は何も知らなかったんだと感じる。
 ルイスさんの事もそうだ。私は彼の何を知っているのだろう。彼はリタを去る時、何を考えていたのだろうか。私は彼から何も感じられなかった。

 彼は若いころ、故郷に対する反発からか、自由を求めて家を出た。そこには強い好奇心もあったのだろう。各地を転々としていた時期を経て、地元に帰り家庭を持った。その後、暴力が彼から「普通の暮らし」を奪った。
 ルイスさんは、酔うと何時もコロンビアの良さを自慢した。それでも「もう2度とコロンビアには戻らない」。そう話した。それは、帰りたくても帰れない故郷への思いを振り払うための強い言葉だったように今は思える。彼がリタで目指したものは、家族や友人と過ごせる、心の休まる本当の居場所を作ることだったのではないか。

 ある晩、二男のルイスが部屋に置かれたテーブルの脚を指してこう言った。
「オレはこれが作れるんだよ」
 それは精巧に彫られた白鳥の形をしている。
「彼がこれを教えてくれたんだ」
 ルイスは、どこかぎこちなく父親を「彼」と呼んだ。そこには、家族を遠ざけたまま死んでしまった父親に対する割り切れない感情が見て取れた。

「オレは君のお父さんが好きだった」
 私がそう話すと、彼は机の引き出しから沢山の写真を出した。それは父親の写真だ。集められるだけ集めたのだろう。若いころの証明写真もあった。写真を見ながら、ルイスがひとり言のように話し出した。
「去年、コロンビアのおじいちゃん(フベナルさん)の所に家族で行ったんだ。彼が『親父はもう年だから、もしかするとこれが最後かもしれない』って言って。それに、8月7日はオレの誕生日で、リタに行こうと思ってた。だけどお金がなくてさ。結局いけなかった。そうしたらさ、すぐ彼、死んじゃった」
「この白鳥すごいだろ。オレはこれができるから、これからも生きていけるんだ……お父さんがオレに教えてくれたんだ」
 そう話すと、小さく咳をした。
 ルイスはもうすぐ父親になろうとしている。出産を2月に控え、お腹が大きく膨らむお嫁さんのリリアーナが、隣の部屋で静かに寝ていた。

 ルイス・フェリペ・タピアさんは、難民となりエクアドルで暮らしながら戻れぬ故郷を思い続けた。彼は仲間、家族を捨て、孤独の中で最期を迎えた。なぜだったのか。彼が見ていた世界を、私は想像することしかできない。しかし、本人の意思とは別の所で、彼は息子たちに新しい故郷を築くための種を残した。その種はすでに芽吹きだしている。育って欲しい。人々を温かく包みこんできた、故郷の森のように。



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亡くなったルイスさんの家族。家族が力を合わせて生きている。2011年12月エクアドル・マチャチ市


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「SONRISA」に掲載された内容で、写真キャプションに誤りがありました。申し訳ありませんでした。
ブログへは、誤りの箇所を訂正し、掲載いたしました。

訂正個所は以下となります。

表紙・家族写真
「右から・父親のフベナルさん」→「左から」
「2012年12月」(撮影日)→「2011年12月」

ページ2・ルイスさんの写真
「2011年7月」(撮影日)→「2010年7月」

ページ3・墓を参るルイスさんの兄
「2012年12月」(撮影日)→「2011年12月」

ページ4・家具を作る兄妹
「2012年12月」(撮影日)→「2011年12月」

ページ5・ルイスさんの家族
「2012年12月」(撮影日)→「2011年12月」

コロンビア難民の生活7 

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2012年12月撮影 エクアドル・リタ


昨年、エクアドルで難民として生活していた友人のルイス・フェリペさんが亡くなった。
彼が一人で暮らしていた場所に行くと、そこには草が生い茂っていた。

コロンビア難民の生活6 

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コロンビア・ナリーニョ県アルタケルにて 2012年12月撮影


ある家族の写真。
彼らのほとんどは以前、コロンビア・ナリーニョ県のマグイというコミュニティーで暮らしていた。
今は皆、それぞれ別の場所に暮らしている。ある人はコロンビア、ある人はエクアドル。
各地で新しく居場所を築こうとしている。

この日は偶然も重なって、久しぶりに一か所に集まった。
真ん中の、水色のスウェットを着た女性が作る土地のお酒を、お土産に頂いた。3リットルのコーラのペットボトルに並々と入れてくれた。一人じゃ飲めないので、クリスマス用にと、何人かで分けた。
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