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コロンビア革命軍の最後 (「SONRISA」掲載)

コロンビア革命軍の最後

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2016年11月、反政府ゲリラ・コロンビア革命軍(以降、FARC)と政府の和平合意が国会で承認され、52年に及ぶ両者間の内戦が終結した。和平合意に基づき、翌2017年1月末より国内26ヶ所の集合地に集結した7,000人余りのFARC構成員の武装解除が、今年6月26日に完了した。
 
コロンビア南西部のアンデス山中に位置するカウカ県北部に、ナサ民族ら先住民族が多く暮らすカルドノ市がある。カルドノからは、これまでに多くの男女がFARCに入隊してきた。今回、集合地が置かれた場所の一つとなったカルドノを、2016年と2017年に訪ねた。
 
カルドノをはじめとする北部カウカ県のこれまでの歩みと、和平合意前後の様子から、農村におけるFARCとはどのようなものだったのかを見て行きたい。

1.武器を置くこと 
 
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「もうコロンビア人同士で殺し合わなくていいんだ」

FARC兵士リチェルが言う。2017年2月、武装解除に向け集合するFARCキャンプ地に彼を訪ねた。36歳のリチェルは、先に入隊していた2人の兄の後を追い、19歳でFARC兵士となった。貧しい先住民族集落で生まれた彼の周囲では、「世の中を変えたい」と思い抱く数多く若者がゲリラ兵士となった。彼も若者が持つ情熱の行き場をゲリラ活動へ向けた。以来、17年が過ぎた。何度も経験した政府軍との戦闘で多くの仲間が死に、彼自身も人の命を奪ってきた。戦闘だけではない「汚い仕事」もあったと話す兵士がいる。自分自身の存在意義となったゲリラ兵士としての姿と、武器を置くことで感じる安堵感の狭間で、彼の気持ちは揺らいでいるようだった。


2.農村に浸透するFARC

私がリチェルと出会ったのは2016年3月。当初、同年3月23日に和平合意に至るとの報道を聞き、私はその前後を取材しようと、前月の2月にコロンビアに入った。そこで知人を通じてFARCへ取材を申し込んでいる中で、現役戦闘員のリチェルを紹介された。

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コーヒーの収穫を終えたアルシビアレスさんと家族


コロンビア南西部カウカ県にカルドノ市がある。市内には6つの先住民族自治区があり、多くのナサ民族が暮らしている。家族単位でコーヒーを作り暮らす零細農家が多い。収穫期は年に一度で、他の現金収入源は限られている。私はコロンビアに通いだして間もない2007年から、同市内サンローレンソ自治区に暮らすナサ民族のアルシビアレス(以下、「アルシ」)と彼の家族を毎年訪ねていた。リチェルはアルシの従兄弟にあたる。他にも、アルシの弟、息子、妹の夫や近隣の人々など、地域から数多くの人々がFARCに入隊していた。

初めてアルシの家を訪ねた日、彼の家でFARCのPRビデオを見た。なぜそんなものを持ってるのか聞くと、「俺たちはFARCだぜ」と、誇らしげに彼が言った。当時、アルシの弟が戦闘員としてFARCで活動していた。アルシ自身の入隊経験はなかったが、FARCの考えを支持し、物資の運搬を手伝い、家に兵士を泊めるなど協力者として積極的にFARCと関わりを持っていた。当時まだ15歳だった彼の長男も、日本の高校にあたる学校を卒業すると同時にFARCに入隊した。のちにその理由を聞くと、「社会を変えるため以前から決めていた。自分の人生の中でやらなければいけない経験だった」と話した。


3.FARC活動地の歴史


何故こんなにもFARCを支持する人々が多いのか。カルドノあるカウカ県北部は20世紀初頭、外部から押し寄せる資本家に先住民族の土地が暴力的に奪われてきた歴史がある。字が読めない住民に対し、説明がないまま土地の譲渡契約書にサインをさせ、明け渡しを拒否する住民に暴力が振るわれたという事例を聞いた。土地の権利を奪われて以降、元来、その土地の主人であった人々は、同じ場所に住み続けるため借地代を地主に支払うこととなった。

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カウカ県北部に広がる肥沃な大地で先住民族が土地を奪われてきた

カウカ県北部のハンバロ自治区では、地主の農場で週に5日、6日無償で働くことで借地代の代わりとし、空いた時間で自分たちが食べるトウモロコシの種をまいたと聞く。1970年代、この理不尽な環境を変えようと抗議した男性がハンバロにいた。地主は抗議を許さず、男性を殺害し、遺体を切断した上で、収穫したトウモロコシを入れる大きな袋に詰め込み、男性の家族が暮らす自宅前に捨て置いた。

土地と自由を奪われた状況に抵抗するため、カウカ県では1970年代、「土地の解放」を中心に据える先住民族運動が活発化する。1971年に組織されたCRIC(カウカ先住民族地域協議会)は、先住民族の復権運動を強く牽引する組織として現在に至っている。

同時期の特筆する人物として、カルドノ出身のナサ民族で、カトリック司祭であったアルバロ・ウルクエ神父がいる。彼は土地解放運動の先頭に立ち住民を啓発していった。彼の行動は、今もナサ民族の学校で教えられている。神父は各地を細やかに訪ねて周り、先住民族である住民に土地の主権者は自分たちであることを説き、地主から土地を解放しなければならないとして住民を組織していった。活発な活動をする神父だったが、1984年、地主が放つ暗殺者に殺害されてしまう。

地主と先住民族による土地問題を抱えてきたカウカ県北部には、様々な社会運動組織が出入りし住民運動に関与していた。その中にFARCを始め、ELN(民族解放軍)、M-19(4月19日運動)など、複数のゲリラ組織もいたという。1980年代には、カウカ県の先住民族自身が銃を取り「キンティン・ラメ武装運動(MAQL)」としてゲリラ活動を始めている。この地域では声をあげ、不正を押し付ける強者に対峙することが生きるために必要だった。1970年代、80年代を知るアルシは、「子どもの頃にゲリラを見て、かっこいいもんだなって思ったよ」と話す。日常の中に、極めて身近なところにゲリラが存在し、憧れの目で眺めていた。

1991年、コロンビアで新憲法が制定された際、MAQL、M-19らは武装解除し、制憲会議に参加し合法政治組織となった。しかし、武装活動を継続するFARCは、カウカ北部でそれ以降も強い影響力を残してきた。


4.若者にとってのFARC


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カルドノでは1990年代以降も多くの若者がFARCに入っていった。このことについてアルシから話を聞いた。カウカ北部で活動していたFARC部隊の一つにハコボ・アレーナ機動部隊(のち戦線に昇格)がある。この時期、「ハコボ」の兵士であることが、若者にとって「かっこいい」存在と捉えられていたようだ。当時、ハコボの司令官にカリチェという人物がいた。背が高く白人系の顔立ちのカリチェは、見た目に都会的な雰囲気が漂っていた。人を惹きつける魅力があり、説得力のある話にアルシも引き込まれたという。

カリチェは山間に点在する様々な先住民族集落を訪ねた。住民を集め、コロンビアにおける農村が置かれてきた状況を説明し、不正がはびこる社会を変えるために革命が必要だと説いた。コーヒー畑の中で、若者たちを集めて車座に座りながら、その輪の中で快活に話すカリチェの姿を、アルシは特に印象に残っているとして好意的に話した。

カリチェの言葉に焚き付けられるような思いを抱く若者たちがいた。アルシの長男ハビエルも周囲の若者と同様、その一人だった。私がアルシたちと出会った当時、ハコボの隊員の大多数が先住民族だと聞いた。不平等な社会で生きる若者たちの情熱を吸収しながら勢力を増していったFARCの姿があった。

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一方、カウカの先住民族運動の中心組織CRIC(カウカ先住民族地域協議会)は、ゲリラと距離を取りながら、農場占拠や道路封鎖など、より活発な復権活動を展開し現在へ続く。ゲリラと地域の関係の深さが、反ゲリラ勢力である準軍民兵組織や政府軍による住民への迫害に繋がってきた。先住民族運動自体をゲリラと同一視し、「テロリスト」と報道する場面もあった。

2002年、ゲリラに対し強硬策をとるアルバロ・ウリベ氏が大統領に就任すると、ゲリラに対する激しい攻撃が繰り広げられた。ゲリラ活動地では、そこに暮らす住民は、少しでもゲリラと関係を持ったと疑われれば攻撃の対象となった。ゲリラを孤立させるため、軍と癒着していたされる民兵が住民を大量虐殺する事件が全国で相次いだ。迫害を受ける農村から避難民が続出した。カウカ県で活動していたFARC兵士は「ウリベが大統領になり、食糧補給など、住民の協力が得られにくくなっていった。居場所を密告する住民も増え、活動することが難しくなった」と話す。

FARCは組織活動を維持するために住民への監視を強めた。軍や民兵と繋がると疑う一般住民を見せしめとして殺害した。ゲリラ、民兵、軍の間に挟まれる地域では軍事組織から距離を置き自立の道を模索する指導者が現れるが、FARCはそれすらも「裏切り」と捉え、銃を向け、命を奪った。住民を抑えるため「裏切り者」の周囲までも殺害する集団虐殺もあった。

カウカ県北部の山間部にトリビオという町がある。ここにはウリベが大統領に就任して以降、対ゲリラの警察施設が置かれたことでFARCの激しい攻撃にさらされてきた。幾度も繰り返される戦闘の中で住民の犠牲者も多数出ている。同地で活動してきたFARC第6戦線所属の兵士にトリビオのことを聞くと、「ここでは中立はあり得ない」と言い、警察への攻撃に、住民への圧力の意味が含まれていたことを示唆した。激しさを増す状況の中で、FARCを支持する人々と、そうでない人々の距離が地域によって大きく分かれていった。

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5.和平交渉の中で揺れ動く人々

2016年に締結された和平合意を受け入れ、武装解除プログラムに参加した各FARC部隊は、2017年1月31日より全国26ヶ所に設置された集合地へ集まった。集合地の一つがカウカ県カルドノ市にある。一部、合意内容に反対する戦線や小規模なグループが、現在も銃を手にして活動を続けていることを補足する。

集合地が設置されるに至る経緯を見て行きたい。当初の予定では、2016年3月23日に和平合意に至るとされていことを前述した。私は和平合意の瞬間をFARCキャンプ地で取材できないかと考え、同年2月から5月にかけカルドノを訪ねていた。現地では、3月23日を間近に控え、集合地を置くためにFARCと地元住民との話し合いが続いていた。カルドノはもともとFARCと関係が深い地域にあり、住民に対し信頼の置けるこの場所に、FARC側から集合地の受け入れを要請していたという。

3月の和平合意は結局流れた。このことについて4月にFARCハコボ戦線所属の構成員に話を聞くと、FARCの安全確保に対する政府の態度が一因となっていた。FARC側の要請は以下の通りだった。まず、全国6ヶ所に集合地を設け、FARC兵士が武器を持った状態で集まること。集合地の周囲に政府軍との非武装緩衝地帯を設けること。武装解除には第3国による監視団が当たること。これらを政府に要求していたという。一方、政府はFARC に対し、全国のFARC構成員はまず武器を手放し、武装解除した状態で1ヶ所の集合地に集まるよう求めていたという。政府の強硬な態度が見て取れる。しかし、FARCにとってこれは飲めることではなかった。背景にあるのが、1985年、和平合意に応じ合法政党の愛国同盟(UP)を結成した際、3,000人ものFARC関係者が次々と暗殺され、政党資格停止に追い込まれた歴史だ。安全が確保されなかったことが、3月に合意へ至らなかった大きな要因の一つとなった。

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武装解除に臨むFARC戦闘員


FARCの支援者が多いカルドノでも、受け入れに反対する人々がおり、意見が分かれていた。地元の指導者や、自治区評議会の代表団がなんどもハコボ戦線のキャンプ地に招かれ、部隊指導部との話し合いがなされていた。反対する人々は、FARCに銃を向けられてきた人、もう武器を持つ時代ではないとしてゲリラと距離を置き先住民族運動で自分たちの社会を前に進めていくべきとする人々だった。カウカの先住民族組織CRICは、FARCの受け入れに反対していた。その理由として上記の理由以外に、「紛争後」にFARCが政治参加することで、先住民族運動に関わる人々がFARC側に流れ、運動が弱体化してしまうのではという考え持っていた。

2016年4月、和平交渉に住民がどう関わるかを話し合う集会が、左派系市民団体によりカルドノで開かれた。そこでは、和平交渉が行われているキューバから、FARC最高司令官ティモチェンコのビデオメッセージが届き流された。ティモチェンコはいかにFARCがコロンビアの農村のために交渉にあたっているかをPRした。この集会には現役のFARC構成員も準備に多数関わっていた。カルドノでの調整員には50歳代の男性構成員があたっていた。彼は年齢的に高齢なため、戦闘員としては活躍することはできないが、普段から農村に入り、部隊が活動しやすくなるよう、住民との間で調整する仕事を担っていた。

その後、集合地がカルドノに決まった後も、部隊が移動してくる半年前から、同様に高齢の調整員が複数現地入りし、多岐にわたる和平合意内容を住民に周知し、今後訪れると考えられる人権団体など外部関係者やマスコミの宿泊先となる場所の確保など、細やかな動きを見せていた。これは補足ではあるが、こうした高齢の構成員は数十年間FARCで戦闘員として生きてきた。私が出会った調整員の一人は家族との関係はすでに途絶え、他に行き場を失っていた。一般社会の中で生きる場所を見つけることが困難な彼らに、戦闘以外の場面でFARCが居場所を与えていた。

2016年5月に私が帰国する間際には、カルドノの先住民族代表団がハバナに赴き、FARC最高指導部と直接会談することになった。彼らが渡航したのは、その後、間もなくしてのことだった。渡航費は先住民族自治体の予算から都合し、一週間のハバナ滞在費用は全額FARCが持った。現地では最高司令官を始め指導部との会談が催され、自治体への協力が要請された。

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家族と再会するFARC戦闘員たち


6.司令官の告白

2017年1月末から4月末まで、私は再びコロンビアを訪ねた。この間、カルドノを含めて3ヶ所の集合地を訪ねた。カウカ県に隣接するナリーニョ県北部の農村ポリカルパに、第8と第29戦線の集合地が置かれている。ここで第29戦線のハビエル・グスマン第2司令官に話を聞いた。

現在50歳の彼は、大学生だった26歳の時に戦闘員としてFARCに入隊した。父親が農民運動の指導者だったことから、幼い頃から社会問題に関心を持ち、16歳で共産党に入党した。FARCに入った当時、愛国同盟の仲間たちが次々と殺されていくのを間近で見ていた。ハビエルがFARCに入って以降、市民である彼の兄弟も暗殺された。これ以上身内へ危害が及ぶことを恐れ、彼は家族との関係を断ち20年以上が過ぎた。

彼に和平合意と今後の展望について聞いた。彼は「この戦争は長すぎた」と言い、「我々も多くの仲間を失った。誰もが疲れている」と話した。さらに、「今の我々にはボゴタ(首都)を落とすことはもうできない。一度の戦闘で数十人の政府軍兵士を殺害しても、何も変わらないことはこれまでの経験が証明している」と続け、「武装闘争を続ける上での社会的状況、コロンビア人自身の意識が大きく変わってしまった」そう近年の苦境を吐露し、「だからこそ、私たちも変わらなければいけない」とした。口調はあくまで穏やかだ。

コロンビアには内戦の原因となった社会格差、貧困が今なお拡大しながら横たわる。社会変革の必要性は変わらないが、そこに向かう手段は大きく変わった。携帯電話やインターネットなどの普及により、農村自身が直接メッセージを発信し、広く世界と繋がりだしたことは大きな変化だ。近年のFARCは保身のために農村の自立を阻んできた。

ハビエルが言葉を続ける。「世の中は変わった。私たちも変わらなければならない」「農村の力を我々は信じている。農村を尊重しながら、どう生活を向上させていけるかが重要だ」「我々は銃を置く。より広く社会運動を展開するために、『言葉』を武器に戦い続ける」「我々は変わる決断をした。しかし、本当に平和な社会を作るためには政府、コロンビア人自身が変わらなければならない」とし、「若いエネルギーを政治に向けるよう活動し続けていきたい」と展望を語った。

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24 年間の武装闘争に終わりを告げたハビエル第二司令官

7.本当の平和とは何か

以上は、コロンビア南西部の農村から見た、この戦争のひとつの形だ。善悪だけで語ることができない複雑な人間の思いが交錯してきた。その中で、53年間存在し続けてきたFARC が終焉を迎えたのは、大きな時代の変化だと感じる。しかし、内戦の原因である社会格差は今なお拡大し続けている。その中でゲリラには、コロンビア社会に居場所を失った人々が辿り着き、その受け皿となってきた一面がある。「FARCは新しい自分を獲得できた場所であり、苦楽を共にした仲間は家族そのもの」と話す若い兵士がいる。

詳細を述べるスペースはないが、この「和平」からこぼれ落ちた人々がいることも忘れてはいけない。太平洋岸の港町トゥマコ市では、麻薬の積み出し港となっているため、麻薬マフィアや形を変えた民兵組織が存在し、FARCが抜けた空白地帯で勢力を伸ばしている。それらと対立してきたFARC構成員は、武器を置いてしまうと自身だけではなく、家族や仲間の命が危険にさらされる。彼らはFARCを抜けて新たな組織を結成し武器を取り続けている。

誰もが戦争など望んでいないにもかかわらず、コロンビアの辺境で生き続けてきた人々は今も社会の歪みを一身に背負い続けざるを得ない状況にある。ゲリラ兵士が再び居場所を失わず、誰もが武器を置き暮らせる社会建設こそが、本当の意味でコロンビア社会への平和の訪れとなる。


8.最後のFARC兵士

FARC兵士リチェルが私に言った。「戦争が終わったら日本に行きたい。俺も広い世界を見て見たい」。彼の名はゲリラ名だ。戦闘員としてFARCに入隊した時点で、活動のため本名を捨てていた。本名で取得したパスポートで世界を見るという、私にとって当たり前のことを彼は夢として語った。今年6月、FARCの武装解除が完了したというニュースを私は日本で見ていた。そのニュースを見ていた同じパソコンの画面で、私のFacebookのタイムラインにリチェルの投稿が流れてきた。

「17年連れ添った銃を今日置いた」

その言葉とともに、銃にキスするリチェルの写真が添えられていた。言葉にすることができない彼が過ごした36年分の思いが滲み出ているように感じた。

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この銃口を、二度と向け合うことがない世界を作らなければならない。

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「ある地域指導者の地域を守る闘い 〜52年の内戦に揺れたコロンビア」(週刊金曜日 2017.7.21) 

「ある地域指導者の地域を守る闘い 〜52年の内戦に揺れたコロンビア」(週刊金曜日 2017.7.21) 
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帰国しました

帰国しました。ボゴタ発の飛行機が遅れたので、マイアミでの乗り継ぎがうまくいかず、到着が羽田から成田になりました。とはいえ、体の方は今回も何事もなく帰ってきました。

先住民族の友人、マウロ 

先住民族の友人、マウロ

 

 

1.


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出会った当時、まだ14歳だったマウロ。(2007年撮影)  

 

南米コロンビアの山中に友人が暮らす。


彼の名はマウロ。現在24歳。僕がコロンビアに通いだして間もない2007年初めに、彼と出会った。


マウロを説明する、どんな言葉があるだろう。


コロンビア人、先住民族、ナサ民族、コカ農家、コーヒー農家、内戦被害者、サッカー好き、大学中退、夢・心理学者、負けず嫌い、女の子を誘えないシャイな青年、彼女募集中、家族思い・・・


今、頭に浮かぶ僅かな言葉だけで語り尽くせるわけがないが、どれもマウロだ。すべてのことが同時に、境界なく彼の中に存在する。一面だけで彼を見ることもできるが、それは、僕が知っているマウロから何となく遠い。


僕がコロンビアに通いだしたのは2006年暮れの頃。26歳だった僕は、写真を撮ることを生業にしようと考え、長い時間をかけて撮影に打ち込める場所と人を探そうとしていた。


何故コロンビアだったのか。それ以前に一度、中南米を旅行したことがある。そこで覚えた多少のスペイン語が生かせることと、コロンビアで続く半世紀に及ぼうとしていた内戦のことが頭にあった。


コロンビアに到着後、すぐに泊まった首都ボゴタの宿で、たまたま手に取った冊子に出ていたのが、コロンビアで「内戦」に直面しながら自治活動をする「先住民族」である「ナサ民族」の話だった。そこには麻薬の原料としての「コカ」も栽培されているということも後から知った。僕にとって、これらの言葉が意味する光景は、ひどく刺激的だった。自分の好奇心を満たすのに、十分すぎた。いくつかのイメージが湧いた。「戦争の中で生きる悲惨な人々」「先住民族の伝統的な生活」「貧しさの中にある人間の豊かさ」。今思えば、テレビや雑誌など、どこかで見たことを確認しに行く作業とも言えた。


実際、現地での生活で、僕が持ち込んだ先入観は意味を持たなかった。何も知らないことにすら気づかずにいた僕は、マウロと彼の周囲の人々を通して、その土地と、そこで営まれる人間の生活を知った。

 

2.


マウロと出会った2007年、僕はボゴタで得た情報を頼りに、コロンビア国内でも先住民族が多く暮らすカウカ県の、アンデス山中に点在する先住民族集落にいた。偶然の出会いから旅の拠点にしていたのが、標高約2800メートルに位置するハンバロ村。ナサ民族が多く暮らす自治区だ。僕はハンバロの、ある家庭に居候していた。気のいい若夫婦が、僕に自宅の空き部屋をあてがってくれていた。初めて見る東洋人の珍しさもあってか、周囲の人々にも相手にしてもらえ、僕はそれを「受け入れられた」と喜び、旅の中での満足感を得ていた。居候を始めてひと月がたった頃、当時14歳のマウロが大きなリュックを背負って、12歳の弟と僕が暮らす家庭にやってきた。2人はその家の夫人の弟だ。

マウロたちは、ハンバロから車で3時間ほどの「ソナ・バッハ(標高の低い地域)」と呼ばれる地域で両親と暮らしていた。ある日、父親がバイクで事故を起こし大怪我を負った。手術をするため、彼らが住む集落から車で丸1日の距離にある都市の病院へ運ばれた。手術を受けた父親は、通院のため病院近くに暮らす知人宅に部屋を借りる。母親も父親の身の回りの世話をするため家を離れた。家に残されたマウロたちは、父親の状態が良くなるまで姉の家に預けられたのだ。

そこからマウロと、約2カ月間、僕は生活を共にした。


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マウロたちが暮らす集落へと伸びる山道。


3.

14歳のマウロは、少年が持つ未知のことに対する素直な好奇心を隠さなかった。毎晩僕の部屋に来て、映画の中で見たジャッキー・チェン、ブルース・リーでしか知らなかった東洋人の僕に、教科書の世界地図を見せながら色々なことを尋ねた。家族、食べ物、習慣や歴史—。僕は彼の質問に答えながら、同じように、マウロに彼のことや、彼らが暮らす土地のことを聞いた。そのやりとりは、言葉に不自由だった僕にとって最高のスペイン語の授業でもあった。また、僕に懐いてくれていたのが嬉しかった。


ある日、マウロが僕に食ってかかってきた。発端は、僕が使っていたノートパソコンに興味を持った彼に、「壊されたら嫌だ」という思いから、触られるのを嫌ったことだった。その時、僕が理解していなかった大切なことがある。マウロが属するナサ民族の社会では、物やお金を独り占めすることは美徳に反する。全体として裕福とはいえない社会で、物やお金を持つ人は、持たない人たちと共有することが美徳となる。お金を持つ人は、さして必要がなくても、自宅の家事の手伝い、壁のペンキ塗りなど用事を作って知人の手を借り、大きな額ではないがお金を渡す。例えばパソコンにしても、頭のどこかで「嫌だな」と思っていても、借りにきた人に壊されないよう注意をしながら、頭ごなしに触らせないということはしない。子どもであっても、きちんと理由を説明するという対等な気遣いが必要なのだ。


僕はマウロのプライドを傷つけ続けていた。もしかすると、マウロだけではなく、その周りの人に対しても同じだったかもしれない。彼らにとって「持つ側」の人間である僕に、マウロが「そうかよ、パトロン」と捨て台詞を吐いた。僕はその言葉に苛立ち、彼と言い合いになった。


その他にも、僕はマウロの心を土足で踏みつけていた。僕は当時、先住民族の暮らしがどういうものか知りたくてそこにいた。普段の会話の中で「インディヘナ(先住民族)にとってこの習慣はどういう事?」という様に、「インディヘナ」という言葉を無造作に使っていた。ある日、アンデスの民族音楽を聞いていた僕に「オレはインディヘナなんか嫌いだ!」とマウロがぶつかってきた。彼はレゲトンというプエルトリコ生まれのダンスミュージックが好きで、よくそのビデオを見ていた。画面には、ビルが立ち並ぶ都会の風景と高級車、派手な格好で歌い踊る男女が映る。農村での自給自足的な彼らの生活とは対をなすものだ。


僕は、自分が持ち込んだイメージを彼に押し付けていた。「先住民族」という言葉が一体誰を指すのかすら、考えたことがなかった。マウロは先住民族である以前に、ナサという固有の民族として生まれている。しかし、そのことも当時の彼にとっては、受け入れたくないことだった。メディアでは、固有の言葉、珍しい衣装、独自の習慣や食べ物など、西洋的な社会にいる他者から見て、見た目に奇抜なものが、それを知らない社会に対して分かりやすい例として「先住民族」として紹介される場面がある。他者は時にそれを、伝統「的」ともてはやし、時に自分たちに比べ「劣ったもの」と嘲笑する。


ナサ民族の中には、民族の言葉が残る地域が少なくない。だが、マウロは民族の言葉を持たず、彼の家族にも話者はいない。民族衣装を着ることもない。また、彼は民族音楽も土地の民話にも興味がない。シャーマニズムに基づく土地の儀式にも、「あんなのウソだね」と言う。それでも、外の人間は自分たちの事を「先住民族」と呼び、厚い壁と距離を生む。「じゃあ、オレとお前の違いは何?」もしそう聞かれたら、今でも僕は、彼が納得する答えを口にできる自信はない。


当時の僕はマウロの心を掴めずにいた。ただただ、初めて訪ねた珍しい土地の人々に、一方的な一体感を覚え満足していた。その僕を否定するマウロの存在に、僕の心はざわついた。

4.

高地にあるハンバロは、日没後には厚手の上着が必要なほど冷える。一方で、日中は日差しが暖かく、時折吹く冷たい風が心地よい常春の場所だ。


柔らかな太陽に照らされた気持ちの良いある日の午後、集落を囲む山々に銃声が響きわたる。一発目の破裂音が木霊となり、随分と長い時間、響き渡っていたのを今でも覚えている。僕は部屋にいた。生まれて初めて聞く銃の音だった。単発だった音が、連続した激しいものに変わっていく。夕飯の準備をする台所から、蒸気が漏れる圧力釜の音がする。服を手洗う音と、水道から流れる出る水の音が屋上の洗濯場から聞こえる。日常の音が、銃声とあまりに不釣り合いで、夢の中のように現実感がない。家の子どもたちはテレビの前に体を寄せ合っている。怯えた顔をするマウロもそこにいた。初めて見る表情だった。集落に駐屯する対ゲリラ警察部隊が路地を走り回るのが窓越しに目に入る。ハンバロの警察施設に対して、谷を挟んだ向かいの山からゲリラが攻撃を仕掛けていた。

混乱する僕は、家の中を右往左往する。マウロが「何でもないよ、フィエスタ(お祭り)だって、落ちつけよ!」と僕を叱咤する。しかし、パニックになった僕は、そのままカメラを片手に外に飛び出す。1時間ほどで銃声が鳴りやむ。興奮し放心する武装警官たちの傍らを、何事もなかったかのように農具を担いだ住民がバイクで横切り、子どもたちが路地で遊んでいる。空からは、いつもと変わらぬ柔らかな日差しが注いでいる。

家に戻ると、洗濯を手伝う女性が「怖かった?」と僕に聞いた。もちろん怖かった。パニックになり外を走り回るだけで、写真を撮ることもできなかった。その土地の営みを、写真に記録するためにいたはずなのに。

台所で料理をしている夫人に「こういうことはよくあるの?」と聞いた。彼女は、「2003年に警察がこの村にきたの。それまで村に警察はいなかった。その代わりゲリラが村の中を歩いていた。でもこんなこと(銃撃戦)はなかった。警察が来てからよ、こんな事が起きるようになったのは。」と言う。もっと詳しく聞こうとする僕の話を「もういいでしょ」と、一方的に遮った。

ここは、政府と反政府ゲリラの勢力圏が交わる内戦の最前線だった。僕は強く頭を殴られたようにクラクラしていた。「内戦」という言葉が何を指しているのか初めて知った。ただ、初めて目の当たりにした戦闘のショックだけではない。僅かの滞在で村の一員になった気でいた僕は、戦闘の間も営まれる日常に、どうしようもなく他所者であることを思い知らされた。マウロの日常もここにあった。ここで自分は何がしたいのだろう。この時ほど、自分と現地の人たちとの距離を感じたことはない。

その後、マウロが自分たちのことを少しずつ話してくれた。

5.


彼が両親と暮らしていた場所には警察も軍も常駐していない、ゲリラの影響力が強い地域だ。加熱する危険な場所という意味で、「ソナ・ロハ(赤い地域)」と呼ばれる。

また、そこは、麻薬の原料としてのコカ栽培が盛んだという。彼の家族は産地として有名なコーヒーとともに、コカ栽培で生計を立てている。家族でコカの葉の収穫し、精製所でペースト状にする。集落には取引に係るマフィアに繋がる人が住んでいる。マフィアを手伝い、靴の底にコカインペーストを忍ばせ町へと運んでいた人物のこと、収入のために軍隊に入った人が、そこで麻薬を覚え刑務所に入れられていた事を、話しづらそうに僕に教えた。また、麻薬で狂った軍の兵士が銃を乱射したこと、住民の物を盗んだゲリラ兵士を別のゲリラが処刑したこと、日常の中にある衝撃的な事を普段と変わらぬ口調で話した。

マウロはよく「Japon bueno! Colombia malo!( 日本はいい国だ コロンビア最悪! )」と冗談めかして言っていた。「なんでそんなこと言うの?」というと「何でもないよ、そう思うだけ!」と返す。

マウロが一度だけ歌ってくれた歌がある。「インディヘナ(先住民族)はいつも泣いている。悲しくて辛くて泣いている」という内容だった。学校で覚えたらしい。その時の寂しそうな彼の顔が印象的だった。

自分が「先住民族」であるがために、都市の華やかな生活とは懸け離れた場所で生きている。そんなことを、彼は身をもって知っていた。

 

6.
数ヶ月後、日本に帰国した僕は、半年後に再びコロンビアに戻った。すぐに戻ったのは、マウロを始め、出会った人たちとの距離を作りたくなかったから。再びマウロを訪ねると、地方の小さな都市に家族と暮らしだしていた。この頃には父親の状態も良くなり、月1回へと通院の間隔が伸びていた。そのため、病院のある都市から、彼の姉が暮らす別の町のアパートに越していた。マウロたちも姉の家で両親と暮らしだした。ハンバロと違い、とても暑いその町で、6畳ほどの部屋に家族5人が暮らす様子は窮屈そうに僕には思えた。しかし、それよりも、家族が一緒に暮らせる幸せを皆が噛みしめているようだった。「ダイスケ、お前は両親を大切にしてるのか?」日本を出ると、ろくに家族と連絡を取らない僕は、「お前が子どもの時、誰がご飯を作って、服を洗ってくれてたと思ってんだよ」と、彼によく叱られていた。後に、当時妊娠中だった彼の姉に子が生まれ、家の中に明るさが増していく。

僕はどうしてもマウロの故郷に行きたかった。マウロがこれまでどんな思いで生きてきたのか、彼らが見てきた風景を見ることで共有できる思いがあるのではないか、その思いが日に日に強くなっていった。

 

7.


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自慢のトウモロコシを収穫するマウロの父。「おれの作ったのが一番うまいんだ」と話す。


3度目の訪問となった20098月、マウロたちは故郷の村に戻っていた。電話をすると、父親は折れた足を固定していたボルトが抜かれ、山を歩けるまでに回復したと言う。


ある日、マウロたちが暮らしている集落から山一つ挟んだ所に暮らす知人を訪ねる機会があった。マウロの親戚も住んでおり、彼らが元気に暮らしている様子を伝え聞くことができた。深い谷に挟まれたその集落は、山の斜面にまだ青い実をつけたコーヒーの木がびっしりと並んでいる。畑で採れた立派な芋や熟れたオレンジを食べつつのんびり過ごしていると、マウロのお父さんが犬を連れてフラリとやってきた。「元気でやってるかー?」僕が来ていることを聞いて、山道を1時間以上歩いて会いに来てくれたのだ。あまりの嬉しさに、握手に力が入る。足はだいぶ良くなっていた。しばらく話をしていると、「今から家に行ってみるか?」と言う。

前回彼らに会ってから1年半以上が経つ。頭の中をみんなの顔がよぎる。

山道を登りきったところから、彼らの暮らす集落が見えた。山々に囲まれたそこだけお皿のような平坦な場所がある。そこに50軒ほど家が立ち並んでいる。マウロの家はその中心から少し離れた山の斜面にある。残り半分の道のりは、やけに足取りが軽くなった。

コーヒー畑の中を通る小道の先に家が見える。家に着くと、マウロの母親と姉、3歳になった彼女の息子が迎えてくれた。マウロは広場でサッカーをしていた。自家製の甘いコーヒーとパンで休んだ後、広場へ行ってみる。夕日が沈む中で、友人たちと汗だくになってサッカーをしていた。大声で声をかけると、「こっちのチームに入ってくれよ!」といきなり僕もボールを追いかけることになった。あっという間に汗だくになり、ヘロヘロになりながら日が沈むまで遊んだ。17歳になったマウロは少し背が伸び、顔つきも大人っぽくなっていた。もうすぐ15歳になる彼の弟は、「ハラヘッタ!ハラヘッタ!」と、声変わりした低い声で、以前教えた日本語を口にした。再び会えたことがとても嬉しかった。

家に戻り一緒に夕飯を食べながら話をする。

夜が更けてくると、あたりが大分涼しくなる。食事を終え、温かいアグアパネラ(お湯に黒砂糖を溶かした飲み物)を飲みながらマウロたちと話しをしていた。その時、「ブーン」という低い音が夜空に不気味に響き渡る。何だろうと思っていると、「フィエスタ(お祭り)が始まったんだよ」と、落ち着いた表情でマウロが言う。すると遠くから、腹にずしりと響く「ズーン」という音がした。低空で飛ぶ軍の飛行機と、そこから落とされた爆弾の音だった。爆弾が落ちた場所はここから大分遠いようだった。ここ数日、山に潜伏するゲリラに対して軍の攻撃が続いているという。毎晩夜が更けてくると空爆が繰り返されている。

不気味な音が響く中、マウロは穏やかな表情のまま会話の続きを楽しんでいる。まるで何事も起きていないようだ。敢えてそうしているのか、本当に気にしていないのか分からない。ただ、彼らの雰囲気が不思議なくらい僕の心を落ち着かせていた。

3日間の滞在で僕はそこを離れた。別れの挨拶をしようとマウロを探すと、彼の姿がない。町へ出かける親戚を、バスが通る場所までバイクで送って行ったという。いつのまにバイクを運転できるようになったんだろう。出会った頃、まだ14歳だった少年の成長を感じて嬉しくなった。


 

8.

その後、日本の高校に当たる基礎教育過程を終えたマウロは、国内第二の都市メデジンの私立大学に入学する。心理学を勉強するためだった。彼の家族にとって、高額の授業料と生活費をまかなうことはとても楽ではない。マウロの姉が、町のコーヒー生産者組合で事務職に就いていた。安定した収入を得られることから、マウロにも、自分の生活費を削って仕送りを続けていた。しかし、無理をしていたのだろう。入学から1年が経つ頃、仕送りを続けることができなくなった。マウロは休学をし、実家に帰ってきた。当時僕は日本にいて、インターネットを通じてマウロと連絡を取り合っていた。休学の話もそこで聞いた。今後のことを聞くと、「コカを摘んで、また大学に戻れたら戻るよ」とメッセージが届いた。


彼の土地では現金収入源が限られる。コーヒーにしろ、一家が1年食べていくのに十分な額にはならない。コカは、貴重な収入源だ。町で仕事を得るには、コネと学歴がいる。都市的な生活をするには、スタートラインに立つことが極めて難しい。他に、収入のために軍隊に入る選択肢がある。しかし、ゲリラの活動地域では、ゲリラへの裏切りと取られかねない恐れをマウロが話してくれた。彼の弟が入隊の気持ちを母親に伝えると、泣いて止めたという。

 

9.

20163月、数年ぶりにマウロを訪ねた。彼が暮らす集落へは、日に数本しかバスがない。連絡すると、途中の町までバイクで僕を迎えに来てくれた。目の前に現れた24歳の彼は、抑えきれない笑顔を浮かべていた。そう感じたのは、僕がそうだったからだ。後部座席に乗る。久しぶりに彼の背中を近くで見た。年月の分だけ、逞しさが増していた。どんな経験を積んできたのかと、想像した。川沿いの直線道路を走る。バイクが、生ぬるい空気を気持ち良く切っていく。どんな会話をしたのかよく覚えていない。他愛のないことだったのだと思う。心地いい時間だった。


数日間を彼と過ごした。大学には結局戻れなかったらしい。そのことに、彼自身が折り合いをつけられず、周囲に心を閉ざしていた時期があったと、彼の姉から話を聞いていた。今は、両親の畑を手伝いながら生活を送っている。僕がそこを去る前日、地域の農業研修制度を利用して、他県の農業学校に入学するためマウロが先に旅立っていった。新しい生活への期待が彼を明るくしていた。出発直前なのに学校までの行き方を全く調べていなかったのには思わず笑った。一緒に地図を見て場所の見当をつける。4、5時間で着くと彼は考えていたが、どう見ても、丸1日はかかる場所にありそうだった。全寮制で、週6日、朝から夕方まで授業が詰まっている。持っていく物は服くらい。小さな荷物をまとめる。なんだか楽しそうだった。


結局彼は、途中道に迷い、集合時間に大きく遅れて現地に着いたようだ。彼の母親が笑って教えてくれた。授業がない唯一の休みの月曜に、彼に電話してみた。やたら、僕の生活を心配してくれた。そういえば、彼から見て僕はどう映っているのか聞いたことがなかった。世間知らずの、フラフラした奴くらいなのかもしれない。実際遠からずのところもある。


次に会うときには、コロンビアの内戦は終わっているかもしれない。どんな経験を積んだマウロに会えるのか。どっちが先に家庭を持っているのかも興味がある。コロンビアの先住民族マウロ。長く付き合っていきたい大切な友人だ。


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愛車で弟をバス乗り場まで送るマウロ。


・終わりに

昨年、コロンビア政府と同国最大の反政府ゲリラFARCの間で歴史的な和平合意が結ばれ、半世紀を超える内戦の大きな節目の年となった。マウロと僕の交流は、現在の内戦が終わりに向かう10年間と重なった。コロンビアでマウロたちと出会えたことで、僕は和平に関するニュースを、僕が出会った一人一人がどう感じ、その人生の中でどういった意味を持つのかを想像するようになった。これは僕にとって、とても幸運なことだと思っている。なぜなら、「もう戦争が終わる」という話が、ある人にとってどんなに喜ばしいことか想像するだけで、僕も同じように喜ぶことができる。こんなに豊かなことはない。

 

僕が繰り返しコロンビアを訪ねたのは使命感があったわけではない。20代後半の僕は、日本での生活に身の置き場のない居心地の悪さを感じていた。それは、自分の立場がはっきりしない、どこに向かっているのかわからないことからきていたのだと思う。当時、周囲で同世代の人々は、社会の中で居場所を作り着実に前に進んでいる様にみえた。僕はいつも、お金がほとんどなくなった状態で帰国し、その場をしのぐために日払いや、短期の派遣バイトを繰り返した。親に頼ることもあった。仕事も人間関係も積み重ねがなく、その日その日をやり過ごす。なおさら周囲の目が気になった。 


コロンビアに行くと「写真を撮る人」という立場が明確になる。外国人であることも手伝い、なんとなく身の置き場がそこにでき、居心地の良さも感じた。沢山の人と出会った。その中には自分を受け入れてくれる人、待っていてくれる人がいた。そして、「私はあなたを大切に思っている」ということを隠そうとせずに、時に押し付けがましいほどに身体全体で表現してくれる人たちがいた。そこで交わされる濃密な感情のやり取りに、僕は強い喜びを感じた。日本にいてもその機会はあったのだと思う。ただ僕は目の前の人とのやり取りから逃げていたように思う。人から信頼され、信頼することの喜びを僕はコロンビアで感じた。

 


2011年の東日本大震災は僕にとって大きな出来事だった。マウロたちと並行して取材を続けていた、エクアドルに暮らすコロンビア難民グループがいる。彼らは内戦から国外に逃れたアワ民族だった。彼らの元には2007年から毎年訪ねていた。もとは、山深い地で農業を中心に自給自足的な暮らしを送る人たちだった。年配者も多く、自分の人生そのものである土地と、そこでの生活を失ったことに傷ついていた。


グループのリーダーであるルイスという男性と僕は馬が合い、彼の家族、仲間たちにカメラを向け、話を聞いていた。ルイスは、異国の地に新しい故郷として難民仲間が暮らす集落を作ろうとしていた。その大きな夢に僕は惹かれた。そこにはマウロたちとは違ったコロンビアの姿があった。


2011年は、6月からコロンビアに行く予定を立てていた。期間は数ヶ月。マウロたちのところと、エクアドルの難民を取材しようとしていた。出発へ向けアルバイトを掛け持ちしていた矢先に震災に直面した。震災直後、僕は混乱していた。実家がある茨城北部も大きな被害を被った。東京で暮らしていた僕は、電気が止まった実家と、地震発生から3日間連絡を取ることができなかった。テレビでは東北の被災状況がひっきりなしに流れてくる。幸い家族は無事だったが、僕は不安に駆られていた。実家から目と鼻の先には福島がある。もともと身近な土地だった福島で原発事故が起きた。当時、僕はかなり強く、実家がある土地もそう遠くない時期に人が住めなくなると考えた。昨日まで何事もなく過ごしてきた日常があっという間に崩れ去っていく。なんて脆いのかと思った。僕はコロンビアに行くことをやめた。取り返しがつかなくなる前に、茨城を中心に見知った土地で起きていることを追うことにした。


そう決めて、駆けずり回っている矢先、エクアドルから連絡が入った。難民グループのリーダー・ルイスが死んでしまったというものだった。彼にはまだ聞きたいことがあったし、彼が語る夢の続きを見たかった。彼の地に行けばまた会えるということを、なぜ当たり前だと思っていたのか。僕は過去を振り返り、もっとできたことがあったはずだと後悔した。

 

福島をはじめ被災地での出来事を、僕はコロンビアで出会った人たちと重ね合わせて見ていた。土地を大切にする人が、自分の意思と関係ない理由で土地を捨てざるを得なくなる。その時のやるせなさ、そして、その土地で生きていくための知恵と力を備えた人々が、暴力的に街に投げ出された時に感じる自分への無力感、不甲斐なさ。こんなはずじゃないという思い。生まれ育った環境に長くいた人ほど、その思いは強い。難民の人たちが欲していたものは、土地だった。それはどの土地でもいいというものではなく、自分が生まれ育った環境とより近い土地。彼らは、その土地での食料の得方、暮らしの立て方を熟知している。その土地で幸せに生きる術を上の世代から受け継いできた人たちなのだ。


またそれからは、コロンビアのことも震災と重ねてみるようになった。地球の反対同士の土地で生きる人々の気持ちを行き来しながら物事を見ていた。日本もコロンビアも、原因は違うが人間として抱く感情の普遍さを知った。

 

人が生きることはなんなのだろうと思う。僕はコロンビアでたくさんの人と出会い、そこで生きる喜びを学んだ。また、その出会いがあったからこそ、日本でも多くの出会いを得た。感謝の気持ちしかない。マウロと僕の違いはなんだろうか。余計なものをそぎ落とした時に残るものにどれだけの違いがあるのだろう。そう思うのは僕の思い上がりかもしれない。僕はこれから何をしていけばいいのか。今は、この人の流れに身を置き、もう少し流されていようかと思っている。その上で、より多くの人たちの生きる姿に接し、役に立つことができれば、こんな喜びはない。


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自宅の軒先で、いとこに髪を切ってもらうマウロ。流行のスタイルを注文する。

『連続無窮』22号 掲載)

コロンビア 「和平」の陰で続く暴力

 内戦が半世紀を超えるコロンビアで824日、活動する国内最大の反政府ゲリラ・コロンビア革命軍(FARC)と政府間で歴史的な和平合意に至った102日には、この合意を国民投票にかけ賛否を問い、その結果を受けて最終的な両者間の戦争終結となる。もう一つのゲリラ、民族解放軍(ELN)と政府間の和平交渉も、エクアドルを舞台に開始されると昨年発表された。国内の、武装組織同士の戦闘が終結に向かっている。

 しかし、「内戦終結」が大きな喜びとともに伝えられる陰で、先住民族指導者をはじめ、地域指導者、社会活動家に対する迫害が止まない。327日の全国紙エル・ティエンポに、2016年最初の3ヶ月間で全国28人の社会的指導者が暗殺されたとの記事が出た。それぞれ、人権、環境、違法開発など社会問題に取り組む地域リーダーたちだ。1478件だった同殺害事件が、15108件へ増加、16年は前年と同レベルで増加している。

 特に先住民族への迫害が続く南部カウカ県では、麻薬取引、鉱物の違法採掘から利益を得る準軍事民兵組織と、民兵の力を利用し、資源開発を進めたい企業が、社会的な自立を求める先住民族社会を抑圧する。

 70年代以降カウカ県では、先住民族自身が復権運動を組織的に続けてきた。私は彼らの活動を、2007年から取材し続けてきた。カウカは資本家、企業による大規模な農場が広がる平野部と、家族単位で農業を営む農民、先住民族が暮らすアンデス山地を地域に抱える。山岳地帯にはゲリラが活動し、平野部では資本家と結びつく民兵が活動してきた。農村は、両武装組織の間に立たされ、大きな犠牲を払ってきた

 歴史の大きな節目となる20163月から5月初めにかけて現地を訪ねた。

 

.殺害されたヤナコナ民族の首長

 20163月2日、コロンビア南部カウカ県の中心都市ポパヤンで、同県ヤナコナ民族自治区リオ・ブランコの首長アレクサンデル氏が白昼、何者かに銃撃され死亡した。31歳の若きリーダーであった彼は、ヤナコナの生活圏である高山地域の環境保護を主張してきた地域の中心人物だった。

 リオ・ブランコを4月初めに訪ねた。標高4400mのソタラ火山を間近に見上げる小さな町。火山から吹き下ろす風が、昼でも体を冷やす。一帯には、約1500人のヤナコナ民族が暮らす。

  アレクサンデルは以前、土地のコミュニティーラジオ局で記者を勤めてきた。昨年初め、自治区の副首長に就任し、昨年末の選挙で投票を得て、今年1月に晴れて首長に就任したばかりだった。

 生前の彼を映した動画を、リオ・ブランコの住民が見せてくれた。地域の祭りの映像だった。賑やかに踊る大勢の男女の前で、ダンスミュージックを奏でるバンドでギターを弾く彼が映し出されていた。若さに溢れ、聡明で活発だった彼は、多くの人を惹きつける魅力を持っていたと聞いた。これから地域を牽引していくと周囲は期待した。彼が働いていたラジオ局が町の中心にある。その外壁に、彼を惜しむ人たちによって、彼の姿が大きく描かれていた。

 まだ亡くなって日が浅いせいか、人々の口は重かった。アレクサンデルの後を継ぎ首長となった男性は、「彼は外部の力から土地と文化を守ろうとした。私たちは彼の意思を継がなければいけない」と話す。他の地域だが、数年前に地域を武装組織から自立させようと活動したリーダーが殺害された場所がある。残された人々の中から、「地域の中心となる人物は、小さな社会で生きる私たちにとって希望なのです。その彼がいなくなった。私たちの希望が消えてしまった」と重く語る人物がいた。暴力が人々に沈黙を強いていた。

 

. 地域指導者への迫害と民兵組織

 カウカでは、16年に入り立て続けに先住民族へ圧力をかける事件が続いている。特に7月は、ナサ民族自治区トリビオの首長のもとに民兵組織アギラス・ネグラスから殺害予告が届いたのを始め、14日には、キリチャオ市でナサ民族2人が銃撃され死亡。続く16日には、ラス・デリシアス先住民族自治区の指導者が、自宅へ押し入ってきた暗殺者に銃撃を受け重傷を負う。さらに17日、ウエジャス自治区で2人の先住民族が身元不明の人間に攻撃を受けている。カウカ県北部の先住民族協会ACINは一連の事件を受けて、「準軍事民兵組織の名で、脅迫文が出回っている」とコメントを発表し、先住民族が暮らす領域の安全確保を政府に要請した。

 民兵組織各地方の大土地所有者、麻薬組織がゲリラから自衛のために所有した傭兵が発端だ。その後、麻薬取引などを資金源に勢力を拡大し、全国組織・コロンビア自警軍連合(AUC)に成長した。対ゲリラ戦争を戦う政府軍と時に活動を共にしながら、現在の内戦の一翼を担った。2006年までに、政府により解体されたが、形を変え今なお活動が続く。現在、大小少なくとも18以上の民兵組織が、全国32県のうち27県で活動していることが報告されている。
 現在の民兵を政治学者アリエル・アリバ氏は全国紙エル・ティエンポ紙面で「誰でも雇うことができる傭兵」だと解説している。また、首都在住のビデオジャーナリスト、ブラディミル・サンチェス氏は「麻薬組織、企業からの資金援助を受ける違法武装組織であり、そこに政治的思想はない」と説明した。

 

3.抑圧の歴史 

 広い豊穣な土地をもつカウカは、古くは牧畜、現在は製糖、バイオエタノール向けのサトウキビ栽培が企業により大規模に展開されている。この豊かな土地にスペインによる統治時代以前から「先住民族」が暮らしてきた。植民地期以降、彼らは入植者に土地を奪われ隷属的に扱われた歴史を持つ。特に19世紀後半から土地を奪われた人々が、自らの土地を地主から借り、借地代を払うため地主の農場で無賃金労働をさせられてきた。一部では1980年前後まで続いた隷属的環境の中で、人々の抵抗を地主は力で圧殺してきた。現在では農地としての豊かさだけではなく、採掘されている金をはじめ、銅や石炭などの豊富な地下資源が確認されている。

 カウカでは、主に70年代から先住民族自身による復権運動が始まり、土地の回復を中心に据え現在へと続く。活発な運動を通して自治意識を高め、自らが主体となり生きる社会建設を着実に成し遂げようとしている。しかし、その土地が生み出す利益を得ようとする民兵、企業にとって、彼らの自治拡大は邪魔なものでしかない。「なぜ先住民族が民兵に狙われるのか?」という私の問いに、前出のビデオジャーナリスト・サンチェス氏は、「それは、先住民族が土地を守るからだ」と答えた。

 

3.主権者としての先住民族

 カウカで先住民族が復権運動の中心に位置付けるのが、「母なる大地の解放」と名付けられた土地を回復するための活動だ。私は2007年と10年、この活動に同行した。07年は、総勢1000人余りの先住民族が参加し、平地部に広がるサトウキビ農場を占拠した。はじめ参加者は二つの班に分かれ、一方が幹線道路を封鎖し活動を妨害する警官隊を制止し、もう一方が農場へと向かった。当時、私はナサ民族が多く暮らすハンバロ先住民族自治区に住み込み取材をしていた。参加者は、10代から年配者まで多岐にわたる普段は農業に従事する「普通」の住民たちだった。中には学校を休んで参加する10代前半の子どもがいた。現在まで繰り返されるこの活動では、警官隊との衝突により先住民族側に多数の負傷者、時に死者が出ている。身の危険を覚悟する人々の情熱が、今も私の中で熱を持つ。農場では投石で抵抗する人々に、警官隊が催涙ガス弾を打ち込んだ。それでも先住民族は抵抗を続けながら農場のサトウキビを引き抜き、彼らを象徴するトウモロコシ、豆など伝統作物の種を1週間にわたり蒔き続け、土地の主権と自身の存在を示した。

 近年は先住民族自治区内で、採掘権を持たない違法業者による金の採掘が問題になっている。土地の住民は川砂をさらう古くからの方法で砂金採取をしてきたが、重機を持ち込む外部の人間が、川の形が変わるほど土地を掘り返し作業を続けたため、河川が汚され森が荒れた。業者の背後には、金取引から資金を得る民兵、企業の存在があるとされる。また、カルドノ自治区では、区内に存在する天然資源採掘を求め、開発へ理解を求める文書が政府より送られてきた。それに対し、要求を拒否する自治区に民兵から脅迫が届いたことがある。

 1991年制定のコロンビア憲法は、先住民族自治区内における土地の主権者として、民族自身による慣習法での統治を認めている。また、同憲法は「すべての地下資源は国家が所有する」と定義しているものの、91年にコロンビア政府が批准した、先住民族の権利を示す国際労働機関(ILO169号条約は、領域内での資源開発に際して政府には関係する民族との事前協議の必要性があることを示し、関係する民族は損害に対する公正な補償を受ける権利を持つと謳っている。また、土地の主権者である先住民族への強制移住を禁じている。この点からも、自治区内において住民の存在を敵視し、暴力で排除する姿勢は強く批判されなければならない。

 

4.誰のための「平和」か 

 今年4月、カウカ県の先住民族の間で、現在の和平交渉にどう向き合っていくかという集会が開かれた。登壇したナサ民族の女性指導者ルス・メリィ氏が怒りを込めて聴衆に語りかけた。

「政府は今も続く暴力をコントロールできず、その背景に責任を持たない。誰のための『平和』か」。

 内戦の要因に、大土地所有に象徴される植民地支配時代から続く社会構造と、拡大し続ける社会格差がある。「先住民族」と呼ばれる人々は、常にこの社会の端に置かれ続けてきた。

 ルス・メリィ氏は演説で、さらにこう付け加えた。「ゲリラ、政府軍、民兵、そこで殺し合うのは私たちの息子たちだ。彼らが銃を向けるのも、私たち自身。紛争の原因は除かれないままここに存在し続けている」。

 武装組織を構成するメンバーは、農村出身者、都市の低所得者層に多いと聞く。そこには先住民族の若者たちも含まれる。私はコロンビアの農村で出会った子どもたちと、今ではよくインターネットを通してSNSで繋がり、彼らが日々アップする日常の写真を通して、今何をしているのか知る機会が多い。その中の、少なくない人たちが政府軍に入隊し、そこで撮影したと思われる写真をアップしているのをみて驚くことがある。山間地のキャンプであろう場所で銃を持つ姿や、軍服で同僚と肩を組んでいるものなどだ。徴兵制があるコロンビアだが、先住民族は徴兵が免除される。写真で軍服をまとう彼らは、自らの意思で入隊したのだ。その理由を、以前から付き合いのある先住民族の友人との会話から想像してみる。

 

 彼はカウカ県のある先住民族自治区で生まれ育った22歳の青年だ。周囲と同じように、彼の家族も農業を主体として生活をしている。自給用に、根菜類やトウモロコシ、豆、さとうきびを栽培し、換金作物としてコーヒーを作る。コロンビアで最も収穫高が多いコーヒー産地の一つであるその地域だが、コーヒーだけで一年間家族を養っていくだけの収入にはならない。ここで重要なのが、麻薬の原料としての違法作物だ。コカや大麻がある。これらを合わせて、コロンビアが定める最低賃金をわずかに上回る収入を得る。

 友人は、大学で心理学を学び人の心を癒したいという夢を持っていた。その後一生懸命勉強し、大学に進学する。進学後は親類の援助を受けて学費と下宿代を賄っていたが、一年で金銭的な無理がでて仕送りが止まってしまった。私が彼と会話を交わしたのは、彼が学校を休学し実家に帰ってきてからだった。思うよういかない人生にイラつき、家族に対して心を閉ざしていた。

 彼が言った。「ここにはコカしかない。一年間コカを摘んで、もしお金ができたら大学に戻りたい。弟は仕事がなくて軍隊に入ろうとしたんだ。でも、ゲリラが近くにいるここでは、家族に軍隊に行った奴がいると『裏切り者』って見られるかもしれない。母親が泣いて止めたよ」。

 彼の暮らす地域から軍隊に入る若者がいることから、ゲリラが一様に圧力をかけていたのかはわからない。ただここでわかるのは、農村の若者にとって未来を切り開くための選択肢が、違法作物の栽培か軍隊に入隊することであるということだ。

 

 コロンビアでは、内戦の沈静化により外国資本が増加し、「戦後」のさらなる経済発展が期待される。資源開発がそこに果たす期待は大きい。しかし、そこで語られる「戦後」の主体は、これまで同様この国を動かしてきた富と力を持つ一部の人々である。社会的、経済的にコロンビア社会の「辺境」に置かれてきた「先住民族」の社会は、今も同じ位置にあり続けている。その状況を変えようと先住民族は、まさに、身を削り、血を流してきた。それでも、「経済的発展」を望む力を持つ人々にって描かれた未来は、彼らを中心に「発展」する「豊かな」社会でしかない。

 ナサ民族の男性が私に話した。「私たちが守ろうとしているのは、私たちが生きるために必要な土地だけです。私にとっての『平和』とは、生まれ育ったこの土地で家族や友人たちと静かに暮らすこと」。これまでの歴史の中で、大きすぎる犠牲を払い続けてきた人々が求める平和の姿に、今の「和平」はどれだけ寄り添えるのか。

 ただ、彼らは平和に対して受け身でいるわけはない。周りの状況が変わろうとも、これまで同様、活動し、発言し続けることで自分たちの価値観による生きやすい社会を作ろうとしている。

 

追記:

 102日の国民投票で、和平合意反対派が賛成派を0.4%上回る票を得た。926日のサントス大統領とロドリゴ・ロンドニョFARC最高司令官による和平合意署名式を受けての事だった。各国の代表者を招き、大々的に和平協定調印式が行われた直後の出来事に、衝撃が走った。

 背景には、FARCに嫌悪感を抱く主に都市部の人々が、武装解除後の恩赦など、FARC兵士に対して寛容な和平合意内容に反発したことや、現大統領に反発する勢力によるネガティブキャンペーンが功を奏したとの見方がある。

 和平合意後、コロンビア各地で、和平を求める人々による大規模な集会、行進が行われた。インターネット上で見た光景に私は強く心を揺さぶられた。それは首都ボゴタの中心で、数万人の市民が集まり、手にする蝋燭の明かりが広場を埋め尽くしていた。彼らによる「queremos la paz(私たちは平和を欲する)」の大合唱が夜空に駆け上っていた。パソコンの画面越しでしか見ることができないにもかかわらず、私は強く心を揺さぶられた。

 また、ネット上には、賛成派、反対派様々な意見が溢れている一方で、投票結果が出た直後、国民がこの結果によって二分することを望まないというメッセージや、賛成派・反対派がお互いが手を握り合う絵など、投票結果が戦争への賛成ではなく、これによってコロンビア国民が対立することを望まないという意思表示が盛んになされていた。

 コロンビア国民は強く平和を望んでいる。誰もが、戦争のない世界を。ノーベル賞受賞によって、世界的な注目が再びこの国に注がれた。粘り強い交渉が望まれる。