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NHKBS1「 国際報道2018」 に出演しました

NHKBS1「 国際報道2018」 にて、コロンビアでの取材報告をさせていただきました。

和平合意から2年、FARCの武装解除から1年がたったコロンビアで、「和平」からこぼれ落ちる地域の話です。

放送内容のダイジェスト版がサイトにアップされました。
どうぞご覧ください。

https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2018/09/0905.html
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「ある地域指導者の地域を守る闘い 〜52年の内戦に揺れたコロンビア」(週刊金曜日 2017.7.21) 

「ある地域指導者の地域を守る闘い 〜52年の内戦に揺れたコロンビア」(週刊金曜日 2017.7.21) 
(↓サムネイルをクリックすると拡大できます)

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【写真展のご案内】「Voces de Nuestra Tierra ~故郷の声 コロンビア先住民族」

【写真展のご案内】
「Voces de Nuestra Tierra ~故郷の声 コロンビア先住民族」

期間:8/30 (火) ~9/5 (月)  10:30~18:30(最終日は15:00まで)
入場無料 会期中無休
場所:新宿ニコンサロン 〒163-1528 東京都新宿区西新宿1-6-1 新宿エルタワー28階 


期間:11/10(木)〜11/16(水) 10:30~18:30(最終日は15:00まで)
入場無料 会期中無休
場所:大阪ニコンサロン 〒530-0001 大阪市北区梅田2-2-2 ヒルトンプラザウエスト・オフィスタワー13階


8月から9月と、11月に、写真展をさせていただくこととなりました。期間中は毎日会場にいるつもりでいます。
お時間ございましたら、どうぞお立ち寄りください。
宜しくお願い致します。

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コロンビアに通い大分経ちます。日常にない刺激や、好奇心を満たすことが最初の動機でした。沢山の場所と人々に出会いました。20代後半からの僕の生活は、この人と場所に再会することが中心でした。
僕にとっての日常は日本にあります。日々の生活の中でふと思い出します。雨にぬかるむ山道の匂い、晴天の日の風に揺れる木々の葉音、路地に漏れる子の泣き声、まとわりつく湿気、心触れ合わせた人たちの体温—。そんな時、叫び出したいような胸の高鳴りを覚えます。そして、「また会いに行きたい」と思います。
コロンビアは52年に及ぶ内戦の中にあります。極端な社会格差是正を求める反政府ゲリラと政府軍の争いは都市から遠く離れた地で続きました。僕が出会った人々も、その中で暮らしてきました。鶏の鳴き声、服を手洗う水音、コーヒーを片手に交わす人々の会話、日常の音に混じり、時折、銃声、爆発音が山に響きます。
忘れられない一つの風景があります。山奥の集落で学校に居候していたある日の午後。洗濯物を干し終え、授業のない無人の教室で僕は一人でまどろんでいました。山から木を切り出すチェーンソーの音がうっすら聞こえていました。その時、大きな爆発音が山を揺らし、山一つ向こうの谷から煙が立ち昇ります。一呼吸おいて、衝撃波が、うねりとなって森の木々を揺らし近づいてきます。恐怖を感じる前に僕の膝は震えていました。
我に返ると、鳥のさえずりと風の音が耳に入ってきました。そして、チェーンソーの音が、何事もなかったように、山に木霊していました。日常の音です。外から持ち込まれた暴力にも侵されない日常でした。人々の強い意志を感じました。
日々の生活に派手なことはありません。淡々と繰り返される日常こそが、何より大切な守るべきものなのだと僕は感じました。
長すぎた、間延びした内戦が終わりを迎えようとしています。今も繰り返す、外からは見えない日々の暮らしを記録しました。
遠い場所にある、僕と変わらない人々の姿を見ていただけたら嬉しく思います。

辺境の故郷 コロンビア・アワ民族

2014年7月発行「SONRISA」(日本ラテンアメリカ協力ネットワーク)に、アワ民族(コロンビア)の記事を寄稿し、ブログに転載しました。(一部加筆修正しています。)

コロンビアの辺境で、なお続く紛争と、そこで暮らす人々のお話です。
お読みいただけたら、嬉しく思います。

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<辺境の故郷 コロンビア・アワ民族>


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アワ民族コミュニティー・マグイがあるコロンビア南部山岳地帯


 50年に及ぶ内戦が続くコロンビアでは、一昨年から始まった反政府ゲリラ「コロンビア革命軍」(FARC)と政府の和平交渉の行方が注目されている。そんな同国で近年、特に緊張が高まっていたのが南部のナリーニョ県だ。中でも先住民族アワの自治区マグイがある山間部一帯はエクアドルとの国境が近く、FARCの重要な活動地として2000年以降、軍の激しい攻撃にさらされてきた。
 
 2013年2月、私はマグイを訪れるためにコロンビアへ向かった。2014年4月に日本へ帰国するまで、3回に分け延べ約7カ月を過ごした。

1.証言

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マグイの紛争被害を証言するホセ・チンガルさん


 「紛争は私たちの社会を破壊しました」。
 
 2013年11月、ナリーニョ県の太平洋岸の町トゥマコで政府機関が主催した紛争被害の証言集会があり、マグイから招かれた地域リーダーのホセ・チンガルさんは、そう状況を報告した。辺境に位置し、政府に顧みられることのなかったマグイが本格的に紛争に巻き込まれるようになったのは2000年以降。以来、5つの集落に224家族が暮らすマグイで少なくとも30人以上が死亡、または行方不明となった。一時は軍によるFARCへの攻撃の激化で住民の9割が避難民となった。周辺地域も含めると、この10年間で更に多くの人々が命を落としている。

2.マグイへ

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2012年12月2日の空爆で形の変わった山

 2013年2月。私はホセさんに連れられ、初めてマグイを訪ねることができた。私は以前に2度、2009年と2011年にマグイに入ろうとしたことがある。その時は情勢が緊迫していたことと、何より地元の人の信用を得ることができずに失敗したが、2011年に偶然ホセさんと知り合い、連絡先を交換していた。今回はコロンビアに着いてすぐ、ホセさんの連絡先に電話をした。マグイに行きたいと伝えると、「今は治安が落ち着いているので、一緒にいくなら来ても構わない」とのことだった。私のことを覚えてくれていたことにホッとし、嬉しくなった。

 山の中にあるマグイヘは、麓の町アルタケルから徒歩で4時間かかる。その間に幾つかのアワ民族が暮らす集落が点在する。アルタケルからマグイへ向かうと最初の集落ベガスに着く。そこまでは車がなんとか入れるが、その先は徒歩か馬だ。地元の人たちは山を歩く際の距離を「半日」「1日」と歩く時間で表現する。エクアドル国境までは「2日」だ。

 ホセさんと共に、山奥へ続く一本の道を歩いていく。目の前に広がる、美しい緑に覆われた深い山々に目を見張った。幾つもの沢が山肌を流れている。「どんな作物も良く育つ、豊かな土地だった」。以前に、マグイを去った避難民の老人から聞いた言葉を思い出す。

 アワの人たちは地元で作られるチャピルというサトウキビの蒸留酒を飲みながら山を歩く。アルコール度数45度の強い酒だ。これを飲むと力が出て、早く目的地に着くという。チャピルが好物のホセさんは嬉しそうに私に説明しながら、チャピルが入ったペットボトルのキャップに注いで私に飲ませると、自分もクッと一息に飲み干した。
 
 道をすれ違う人たち同士は、ほとんどが顔見知りだ。週末には買い出しにアルタケルへ向かう多くの人が行き交う。人々はすれ違う度に足を止める。「(アルタケルに)出て行くの?」「そうだよ。そっちは戻ってきたの?」という会話が挨拶代わりだ。少し立ち話をして「また明日」といって別れる。チャピルを持っていれば、そこで何度か杯を交わす。チャピルで力が出る、と言うよりは、長い道のりを楽しい気分で歩くことが力になるのかとも思った。途中で酔いつぶれて歩けなくなっているおじさんを見かけることもままある。
 
 マグイへ向かう道中、残された紛争の跡を示して、ホセさんは説明してくれた。住む人が去った家々、FARCと軍の戦闘の起きた場所、FARCに一家全員が殺害された場所、地雷で人が亡くなった場所――。

 道沿いの山肌に、小さな穴が空いているのが目に入った。1つではない。2、3メートル間隔でいくつも続く。「以前、軍との緊張が高まった時、FARCによって小型の爆弾が埋められていたんだ」とホセさんが話す。爆弾が仕掛けられるのは夜の6時から早朝6時まで。爆弾から伸びる紐が道を這い、紐に足をかけると爆発する仕組みだった。動線でつないで離れた場所から爆発させるものもある。危険なため、夜間の往来はしないよう住民に協力が求められていたが、この爆弾の犠牲になった住民もいる。

 爆弾が仕掛けられなくなったのは、2012年12月2日の軍による大規模な空爆の後からだった。当時、マグイ内の山林にFARCの兵士が野営をしていたという。午前1時頃、いくつかの爆撃機が低い飛行音を谷間に響かせ現れた。FARCの野営地上空に辿り着くと、明け方4時ごろまで激しく爆弾を落とし続けた。この攻撃で25人以上のゲリラ兵士が殺害された。その中に、マグイ周辺を拠点としていたFARC機動部隊マリスカル・スークレの司令官もいた。
 
 空爆の後、ゲリラはマグイを離れ、エクアドル国境近くへと拠点を移している。これにより地雷は仕掛けられなくなった。以降、マグイでのFARCの影響力は低下したとみられる。例えば、それまでマグイが毎年払わされていた「革命税」を2013年は払わずに済んだと聞いた。これまでゲリラにより携帯・カメラ等の通信機器の持ち込みが厳しく制限されていたにも関わらず、写真を撮ることを目的とした私が入ることができたこともその一つだとう。これはとても大きな変化で、空爆以降、一気に携帯電話が集落内に持ち込まれた。今ではほぼ一人一台に近い状態だ。2013年後半、FARCが戻って来てからも、この変化が後戻りすることになっていない。
 


3.マグイの学校

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深い山に囲まれたマグイの学校。先住民族の子どもたちが通う。

 マグイを含めアワ民族が暮らす一帯はコロンビアの辺境にある。長い間、中央から顧みられることがなかった。車が入れる道路がないのは前述したが、マグイに電気が通ったのは3年前だ。他の多くの地域には未だ電気は通っておらず、懐中電灯と石油ランプが夜の屋内を照らしている。
 
 そんなマグイに初めて小学校ができたのは1960年代始めのことだった。地元の人たちの手で山から木を切り出し、校舎を建てた。教師は生徒の父兄が町で適任者を探し、お金を出し合い賃金を払っていたという。

 だが、小学校から上へ進学するには町に出るしかなかった。山間の家からは遠くて通えず、下宿しながらの生活になる。費用がかかることや、親世代に就学の習慣が根付いていないことから、進学しない子どもが多かった。

 また、町では先住民族以外の人々が多数を占め、文化も山とは違う。以前は今よりアワに対する蔑みが強く、言葉や生活習慣の違いをバカにされたという。マグイでは50年前は全員が話していたというアワ語だが、現在は日常的に話す人は一人もいない。背景にあるのが、町に出た時に蔑まれた経験だ。かつてはアワ語を使っていた年配者も今は話すこと嫌う。話すことが「恥ずかしい」と思っているのだという。だから子どもにはスペイン語だけで接するようになった。町の生活に馴染んでいこうとすれば、それはアワの文化を捨てることも意味していた。

 そして現在。マグイには小学校から高校までをカバーする学校がある。「山で暮らすアワの子どもたちが誇りを持って生きていけるよう、先住民族のための学校を作りたい」。そんなホセさんの夢が実を結び、90年代初めに設立された。この地域一帯で唯一、山間にある先住民族のための学校だ。校名を「インガル・アワ」という。アワの言葉で「山に生きる人」を意味する。

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マグイの学校に念願の顕微鏡が届いた。15年学校に勤めるヘンリ先生が、生徒に使い方を教える。

 
 学校をはじめ、地域がどう未来へ向かって進むべきなのかをホセさんは考え続けてきた。アワとして誇りを持って生きられる故郷を作りたい。その夢を地域の内外で語り続けることで協力者を得て、学校の他にも道路などを一つ一つ実現していった。彼の情熱に多くの人が引き寄せられてきた。

 マグイの学校で初代校長を務めたイバン神父もホセさんらとともに積極的に活動してきた一人だ。「ホセさんは常に夢を持ち、将来を見据えた大きな目標がある。私はそれに協力した」。神父はそう話した。


4.アワとして生きる

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地域の集会に参加するホセさん。多くの人から信頼を集める。


 ホセさんのこの情熱はどこから来るのだろう。

 ホセさんは1955年9月1日、ナリーニョ県の高地の町コルドバで生まれた。両親はマレスという先住民族だ。ホセさんの姓のチンガルは、マレス民族やエクアドルの先住民族の人々に見られるという。
 
 コルドバは先住民族と白人の混血であるメスティーソが住民の大半で、マレス民族自身も言葉や習慣など独自の文化をすでに失っていた。当時、自分たちが「先住民族」という意識は薄かったようだ。

 ホセさんは幼い時に両親が別離し、母親に育てられた。コルドバの小学校を卒業し、日本の中学校に当たる学校には入学したものの、すぐに行くのを辞めてしまったという。学校では周りの子どもたちに「チンガル」という姓を先住民族と結びつけられバカにされた。それが悔しくて悔しくてたまらなかったのだ。12歳の時にカケタという近隣の県へ親類を訪ね、農場などで働き始めた。仕事を覚えれば大人も子どもも同一に扱われ、賃金が貰える。彼は学校に興味を失った。

 ホセさんが18歳まで過ごしたカケタ県はアンデス山脈の東側に位置し、幾つもの大河が熱帯雨林地帯を横切る。河の周囲にはインガという先住民族が暮らしていた。そのインガの人々とホセさんは一時期生活を共にした。独自の言語・文化の中で生きるインガから多くを学んだという。数多くの薬草の知識、狩猟の仕方、作物の栽培方法。長い歴史の中で積み上げられた民族の経験が、生活の中に息づいていた。

 ホセさんは18歳でカケタを離れ、好奇心に任せて各地を渡り歩いた。国境を超えてエクアドルでも暮らした。仕事は行く先々で見つけた。大工、農場、パン屋。どんな仕事も楽しくて精一杯取り組み、気が付くと色々なことができるようになっていた。友人もあちこちにできた。

 生まれ故郷のコルドバを離れてからの生活で「人はどう生きるのかを学んだ」とホセさんは話す。「地域によって違いがある。そこで起こる問題にも違いがあるということも身体で感じた」。この経験が地域のリーダーとして活動する今に通じている。

 20代半ばになって、ホセさんは母親が暮らすコルドバに戻った。大工の仕事で近隣の高地の町クンバルへ行った際、夫人のロサさんと出会った。ロサさんの両親はクンバル出身だが、1950年代に住みやすい温暖な土地を求めてマグイに入植していた。ロサさんも両親と共に幼くしてマグイへ移住したが、クンバルに残しておいた家に戻っていた時にホセさんと知り合ったのだそうだ。

 ロサさんと結婚したホセさんはマグイで暮らし始めた。土地はロサさんの父親から土地を譲ってもらった。当時30歳。農業を営む暮らしは未知のこと。何もわからなかったが、周りに暮らすアワの人々は作物の種や鶏を分けてくれた。ホセさんは、ここで子を育て、根を張り始めた。山での暮らしを懸命に覚えていくホセさんを、アワの人々は受け入れてくれた。「今でも感謝している。恩返しをしたいと思って生きている」とホセさんは言う。「地域の先頭に立って仕事をしていくことに迷いはない。私はアワではないけれど、今はアワとして生きている」。


5.紛争

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仲間が地雷の犠牲となった場所に立つホセさん。

 平穏だったこの地域は、どのように紛争に巻き込まれていったのか。マグイに反政府ゲリラが本格的に入って来たのは90年代中頃。FARC(コロンビア革命軍)とは別のELN(国民解放軍)だった。80年代に、別のゲリラM-19が来てはいたが、通過するのみだったと聞いた。ELN が来た時期については人によって記憶に違いがある。マグイが先住民族自治区として登記された94年という人もいれば、それ以前だという人もいる。だが、だいたいこの前後であったことは確かなようだ。人々の話を総合すると、概ね次のようだった。

 ある日、ELNの主要なメンバーがマグイにやってきた。マグイ住民の代表による、コミュニティーの意思決定機関である評議会と接触して「私たちはコミュニティーと協力して地域のために働いていきたい」と申し入れた。ELNを受け入れるかどうか話し合いが行われ、受け入れることになった。

 彼らは武器を持っていたが、地域で戦闘が起きることはなかったという。政府軍が山に入ってくれば、ELNの兵士たちは軍が去るまで別の場所へ移って衝突を避けた。ELNは近隣の資産家から道具と資金を提供させ、地域の活動に回していた。ある時はその資金で牛を買い集め、共同体の住民による共同牧畜を始めた。牛を売ったお金は各家庭へ均等に分配された。地域の指導者や教師、外部からも弁護士や大学教員などを募って政治をテーマに勉強会を開いたこともあったという。

 だが、2000年になると、FARCが地域に入ってきた。ELNとの戦闘も起きた。マグイはFARCの勢力圏に置かれたが、一帯で見ればFARCとELNがモザイク状に場所を分けあう形となっていた。

 FARCは独自の「山の法」を敷いていった。通信機器の持ち込みを禁止したのもこれによる。それでもまだ、住民に対する縛りは緩やかだったようだ。だが、2002年、対ゲリラ強硬派のウリベが大統領に就任すると、ゲリラへの攻撃は激しさを増した。住民の話を聞いていると、この時期からFARCが大きく変質した様に感じる。軍と繋がりのある、あるいは繋がっていると疑われた人を容赦なく殺していった。ゲリラに反する行動を取る人に対しても、見せしめ的に本人だけでなく家族までも殺害する場面があった。

 一方の政府軍は、山で暮らす人々をゲリラ、またはゲリラの協力者と決めつけていた節がある。ヘリコプターがアワ民族の地域に低空飛行で入ってくると、無差別に民家を銃撃していった。屋根に銃痕の残る家がやたらとあるのはそのせいだ。2004年にはマグイの小学校が軍の空爆を受けて大破した。早朝で児童は登校前だったため、死傷者が出なかったのは幸いだった。軍が住民不在の家へ上がり込み、無断で物を持ち去り、家畜を食ったという報告も少なくない。激しい攻撃を恐れて町へ逃れた人々の中には、避難民として名乗り出ることを嫌った人もいる。山から来たゲリラの協力者と疑われ迫害される危険があったからだ。

 他にも人々を弾圧した組織がある。右派民兵だ。現在、ウリベ前大統領も含め、当時の政府関係者との癒着が告発されている。政府は民兵を使ってゲリラに攻撃を仕掛け、ゲリラの協力者と思われる一般の人々を迫害させた。実際、農村を歩いていると、軍と行動を共にしていた、頭髪の長い、髭を生やした武装グループの証言を耳にする。軍の兵士は全員が坊主頭で髭を蓄えることはない。人々と話していると、軍、警察と民兵が同一視されているのが分かった。

 アルタケルで商店を営むある夫妻は、娘がELNに入隊した。本人の意思かどうかはわからない。軍は夫妻をELN協力者と見なし、町から去るよう圧力をかけ始めた。気にしないように努めていると、ある日、夫妻が営む商店に民兵がゲリラ兵士を連れてきて、店の前で銃殺した。更に数日後、ちょうど店を閉めて少し離れた畑に行っている間に、やってきた民兵が店に火を着けた。店に隣接する自宅にも火は及んだ。この町には警察施設があるが、民兵の行動を黙殺していたという。夫妻はその後、エクアドルへ亡命。3年間、避難民として生活したが、日雇い以外に仕事がなく、生活に疲れ、状況が落ち着きを見せたアルタケルへ戻ってきた。

 2005年に息子を失ったある母親にも話を聞いた。当時15歳だった彼女の息子が山で軍の兵士と鉢合わせた。息子は恐怖から逃げ出すと、後ろから銃撃され倒れた。一緒にいた友人が背負って母親のもとまで連れてきたが、間もなく息を引き取った。逃げ出した理由について「身分証を持っていなかったため、軍に自分の身分を証明できないことを恐れたのではないか」と母親は言う。他にも、ただ山を歩いていただけで軍から発砲されたという人の話も聞いた。

 マグイでは2006年に紛争がピークを迎えた。FARCが活動するマグイとその周辺に対し、10日間にわたって軍が空爆した。この時、軍が兵士を山に送り込もうとする直前に、FARCによって全ての道に地雷が埋められたという。その前日、FARCは住民に逃げるよう警告を出したという証言もあり。こういった緊迫する状況の中で、住民の9割以上が避難民となって山を下りた。逃げられなかった人の中には、家族に病人を抱えていたり、外の社会で生活することへの恐れから集落に残った人がいた。

 山を下りた人々も、持っていったのは必要最低限のものだけだった。町での生活に馴染めず、数ヶ月で山に戻った人もいれば、そのまま未だに戻っていない人もいる。集落から離れていた間、人々は貴重な財産である作物の種や家畜を失った。所有する畑に地雷を撒かれ、入ることができなくなった人もいる。この経験が、その後は戦闘があっても外部へ出たがらない理由となっている。


6.和平交渉の今

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避難民生活を送るマグイ出身の老夫婦

 現在、コロンビアでは反政府ゲリラFARCと政府の和平交渉がキューバを舞台に続けられている。FARCは5つの項目を提示し、その3つでこれまでに合意が成立した。私の知人は、これまで決裂してきた和平交渉を思い出しながら、期待を交えつつも少し斜に構えて眺めている。ほとんどの人は、この延びきった紛争にうんざりしている。
 
 私が先住民族コミュニティーで出会った17歳の少女は、かつてELNの兵士だった。ゲリラ兵士に恋をし、彼を追って入隊した。後に妊娠がわかり除隊。出会った時は赤ちゃんを抱きながら学校に通う高校生だった。

 その自宅を訪ねたことがある。赤ちゃんにおっぱいをあげながら彼女はこう言った。「日本には戦争があるの?コロンビアではコロンビア人同士が殺し合ってるのよ。馬鹿なことだと思う」。彼女のボーイフレンドはその後、ゲリラを抜けエクアドルへ逃げていったという。今は何をしているのかわからない。

 この戦争は誰のためのものなのか。誰かを幸せにしたのか。
 
 2013年11月6日、FARCが政治参加していくことで政府との間で合意した。しかし、その同じ日、ナリーニョ県内4ヶ所でFARCは警察施設を襲撃している。更に、私がマグイに滞在していた2014年1月から2月にかけ、マグイでは軍と、2013年後半に地域に戻ったFARCとの間で衝突が続いていた。避難をする人々も一部に出たし、学校を始められないという事態にもなった。テレビから伝わる和平交渉のニュースがどこかと置い場所の出来事に感じられた。
 
 今年6月には、もう一つの反政府ゲリラELNが政府との和平交渉をスタートさせるという報道があった。しかし、ゲリラが武器を置いたとして、それが平和につながるのだろうか。新自由主義政策を進める社会は今もなお、弱い立場の人々を置き去りに「発展」を掲げて邁進している。そもそもの紛争の原因であった構造化された社会格差は解消されることなく、年々拡大し続けている。解体されたといわれる右派民兵は形を変えて各地でその勢力を伸ばしている。

 また、現在の紛争地には多くの資源が眠っているといわれる。ゲリラがいることで開発が進んでいない多くの地域ある。和平は紛争地帯の資源開発とセットであるという話も聞く。紛争地で暮らす、誰よりも平和を願う人々の生活のその後は、保証されていない。大きな声で語られる「経済発展」の前に、人々の生活は飲み込まれていくのか、そう心配をする人々がいる。

 「国もゲリラもいらない。我々は自分たちで将来を築いていく」。ある先住民族指導者はそう話した。

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元反政府ゲリラ・国民解放軍兵士の少女


7.故郷


 今回、私がマグイを訪ねたのはなぜか。私は2007年、エクアドルで避難民として生活するアワの人々に出会った。彼らの多くがマグイ出身者だった。

 初めは「避難民」「先住民族」としての彼らを見ようとしていた。それは、私自身が持ち込み、相手に押し付けたイメージでしかなかった。その後、私は毎年のように彼らの元を訪ねるようになった。その度に、これまで知らなかった一人ひとりの思い、経験に触れた。私と何ら変わらない一人の人間としての姿が胸に迫ってきた。

 彼らは自分たちの故郷のことを沢山聞かせてくれた。これまでどう生きてきたか。そこがどんなに住み良い土地だったか。温暖な気候、豊かな水と緑、良質の土。その環境で、自分の土地に好きな作物を作って生きる喜びを活き活きと語っていた。

 山の生活、仕事、食べ物、天気、日々のこと、彼らの語る言葉を同じように自分も使って語り合いたいと強く思った。いつしか、マグイを訪ねることが私にとっての生きる力になっていた。実際に訪ねると、その言葉の通り、美しい山々に抱かれ人々が生活していた。

 ホセさんの後を歩いて初めてマグイに向かった日。地元の人なら4時間で着く道のりを、私はすでに7時間歩いていた。「ダイスケ、あと少しで着くぞ!頑張れ、チャピルが足りないな!」。ホセさんは全く疲れていないようだ。最後に延々と続く急斜面を登り切ると、立っていられないくらい足がガクガクした。山歩きに慣れていない上に、ちびりちびりと飲んでいたチャピルがすっかりまわり出していた。暑さと酔いで喉がカラカラだった。

 沢のそばで少し休んだ。ホセさんが沢に顔を突っ込み、水をがぶりと飲んだ。とても旨そうだった。私も顔を突っ込み水を飲んだ。なんて冷たい水だろう。めちゃくちゃ旨かった。そのまま頭を水の中に沈めた。

 顔を上げると、目の前がパッと開けた気がした。山々に聞いたことのない鳥の鳴き声が響いていた。深い木々の隙間から、夕日に染まりつつある赤い空が覗いていた。やっとマグイにこれたんだ。疲れている場合じゃない。私が歩いてきたこの道を、これまで出会ってきた避難民の人たちは毎日歩いていたんだ。この水を飲み、空気を吸って生きていたんだ。精一杯感じなきゃいけない。

 「もう一杯飲め!」。ホセさんが勧めるチャピルを一息にのみ、ふらつく足で、再び歩き出した。そんな私を楽しそうにホセさんは見つめていた。

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「先住民族の少年マウロ」

2010年10月「ソンリサ」(日本ラテンアメリカ協力ネットワーク発行)に寄稿した記事です。
マウロというコロンビアに暮らす先住民族の少年との思い出を書いたものです。

3日前にマウロとネットを通じて話をしました。彼の家族も登場しながら、久しぶりに顔を見ながら話をすると、当時のことを思い出して嬉しくなりました。

読みにくいところも多いと思いますが、読んでいただけたら嬉しく思います。


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「先住民族の少年マウロ -コロンビア」

コロンビア南部カウカ県の、アンデスの山々に囲まれた五〇軒ほどの家が立ち並ぶある集落に、マウロと言う先住民族の少年が住んでいる。そこはコーヒーの深い緑色の葉と、太陽の光を照り返す鮮やかな黄緑色のコカの葉が、山肌を覆う。麻薬の原料としてのコカ栽培の盛んな地域では、紛争の中に多くの住民が巻き込まれている。話の中に登場する人達への影響を考え具体的な地名は伏せることにした。コロンビアで生きる、ごく普通の家族の身近に起きている出来事を話したい。


1.マウロとの出会い 


二〇〇七年、コロンビアに滞在していた私は、先住民族の生活を知るため、コロンビア国内でも先住民族が多く暮らすカウカ県の、アンデス山中に点在する先住民族コミュニティーを訪ね歩いていた。標高約二八〇〇メートルに位置するコミュニティーで私が居候をしていた家庭に、当時一四歳のマウロが大きなリュックを背負って、一二歳の弟アレクシスとやってきた。二人はその家庭の奥さんの弟だ。

二人は、コミュニティーから山道をバスで六時間ほど下った「ソナ・バッハ(標高の低い地域)」と呼ばれる温かい地域で両親と暮らしていた。ところがある日、父親がバイクで事故を起こし、足を折る大けがを負う。そして手術を受けるため、彼らが住む集落から車で丸一日かかる国内第二の都市カリの病院へ運ばれる。そこで手術を受けた父親は、通院のために病院近くに暮らす友人宅に部屋を借りることになる。母親も父親の身の回りの世話をするためカリへ向かった。残されたマウロたちは、父親の状態が良くなるまでお姉さんの家に預けられたのだ。
 
私が居候しているときに彼らはやってきた。それから二人とは、二カ月ほど同じ屋根の下で生活することになる。

2.父への思い


面倒見のいいマウロは、弟のアレクシスといつも一緒に遊んでいた。サッカーが大好きで、応援するプロチームの試合がある日は二人でテレビを占領し歓声をあげる。夜、少し大人びたテレビドラマで、エッチなシーンがあると
「ノー!」と言いながらアレクシスの顔を手で覆い、二人でよくじゃれあっていた。また、テレビなどを通じ日本の事を知っている二人は、夜になると私の寝床に来て世界地図を手に話を聞きたがる。そんな彼らに日本の話や言葉を教えたりしていた。私はとても懐いてくれる二人の事が、徐々に本当の兄弟のように思えていった。また、たどたどしいスペイン語の私に、大人が話す難しい言い回しを分かりやすく言いなおしてくれるスペイン語の先生でもあった。

家の中では、毎日楽しそうに過ごすマウロだったが、事あるごとにつっかかってくる時があった。そんな彼を初め理解できず、ムキになってしまったことがある。彼は初めて両親と離れて暮らすことや、まだ友達の少ない不慣れな土地での生活にストレスを抱えていたのだ。弟の前で必要以上にしっかり者として振舞おうとしていたのかもしれない。話を聞くと、普段弱音を吐かない彼が、両親に会いたいと漏らす。ほとんど親と連絡を取らない私は、子供の時に誰がご飯を作って、服を洗ってたと思ってるんだ!」と彼に叱られてしまった。

学校が長期休暇に入ったとき、居候先であるマウロのお姉さんに頼んで、二人を彼らの両親が暮らすカリへ連れて行くことにした。

お姉さんから借りた携帯電話で両親と連絡を取りながらバスを乗り継ぐ。途中で車に酔ってしまったアレクシスを介抱しながら、道順を誘導していくマウロ。お金は払うがマウロの後ろをついていく私。まったくどっちが大人なのか分からない。

朝五時のバスで出発し、カリに着いたのはもう日が暮れてからだった。両親の顔を思い浮かべ、嬉しさを顔に表す彼らを見ると、私も明るい気分になってくる。久しぶりに会う両親は、住宅街の友人宅のひと部屋を借りて暮らしていた。「こっちがオレのお父さんで、こっちがお母さんだよ。」と私に両親を紹介するマウロの顔には、子供らしい無邪気な笑顔が溢れていた。お父さんの足には、折れた脚を固定するためにボルトが埋め込まれ、脛から突き出した金具がとても痛々しかったが、彼も久しぶりに会う子供たちを目の前にし、笑みがこぼれていた。

3.目の当たりにした現実


その後、村に帰り再び一緒に生活していたある日、午後の柔らかい太陽に照らされた谷間の村に銃声が響きわたる。単発だった音が次第に連続した激しいものに変わっていく。初め何が起きているのかわからなかった。台所では圧力鍋から漏れる蒸気の音、屋上の洗濯場からは、服を手洗いする音と水道から流れる出る水の音が聞こえる。日常の音が、外に響き渡る銃声とあまりにアンバランスで、まるで夢の中のように現実感がない。しかし、子供たちはテレビの前に体を寄せ合い、集落に駐屯する対ゲリラの警察部隊が路上を走り回るのが目に入る。警察が駐留する建物に対して、谷を挟んだ反対側の山からゲリラが攻撃を仕掛けてきたということだった。

初めて聞く銃声に混乱した私は、家の中を右往左往するばかりだった。ここでも子供たちに「何でもないよ、フィエスタ(お祭り)だって、落ちつけよ!」と励まされる。しかしパニックになった私は、そのままカメラを片手
に外に飛び出した。一時間ほどで銃声が鳴りやむ。興奮し放心する武装した警察たちの傍らを何事もなかったかのように畑仕事の道具を担いだ住民がバイクで横切り、路地では子供たちがサッカーをしている。

家に戻ると、住み込みで家事をしている女性が洗濯をしながら尋ねる。「ダイスケ怖かった?」もちろん怖かった。パニックになり外を走り回るだけで写真を撮ることもできなかった。

台所で料理をしている奥さんに「こういうことはよくあるの?」と聞いた。彼女は、「二〇〇三年に警察がこの村にきたの。それまで村に警察はいなかった。その代わりゲリラが村の中を歩いていた。車やバイクを盗まれる人もいたのよ。でもこんなこと(銃撃戦)はなかった。警察が来てからよ、こんな事が起きるようになったのは。」と言う。もっと詳しく聞こうとする僕の話を「もういいでしょ。」と一方的に遮った。

私は強く頭を殴られたようにクラクラしていた。それは初めて目の当たりにする戦闘のショックだけではない。僅かの滞在で村の一員になった気でいた私は、戦闘の間も営まれる日常に、どうしようもなく他所者であることを思
い知らされた。

ここで私は何がしたいのだろうか。この時ほど、自分と現地の人たちとの距離を感じたことはない。

4.少年の葛藤


マウロはよく「Japon esta bueno! Colombia esta malo!( 日本はいい国だ! コロンビア最悪! )」と冗談めかして言っていた。「なんでそんなこと言うの?」というと「何でもないよ、そう思うだけ!」と返ってくる。

ある日の夜、部屋で私と二人きりになったマウロが、「これはみんなに話しちゃ駄目だからな、」と前置きして大切な話をしてくれた。まだ一年もたたない前年、生まれて間もなかった彼の弟が流れ弾に当たって亡くなったという。「今はまだとても悲しくて、家族の間でこの話は誰もしない。」想像もしていなかった話だった。彼の口ぶりは淡々としている。いつもと変わらぬ表情で話すマウロの気持ちをつかみ切れずにいた。唐突に切り出された話しの重さに、私の顔は困惑していたのかもしれない。そんな私の様子を察して「やっぱり今の話は忘れてよ。誰にも言っちゃ駄目だよ。」と、彼は明るい顔を作った。どういう気持ちで私に打ち明けてくれたのだろう。私は彼の言葉を受け止められず、そのまま部屋を出ていくマウロにそれ以上話を掘り下げて聞くことができなかった。

マウロが一度だけ歌ってくれた歌がある。「インディヘナ(先住民族)はいつも泣いている。悲しくて辛くて泣いている。」という内容だった。その時の寂しそうな彼の顔が印象的だった。また彼は「都会に住んで白人みたいに暮らしたい」とも口にしていた。

私は当時、先住民族の暮らしがどういうものか知りたくてそこにいた。普段の会話の中で「インディヘナ(先住民族)にとってこれはどういう事?」という様に、「インディヘナ」という言葉を無造作に使っていた。ある日、アンデスの民族音楽をよく聞いていた私に「オレはインディヘナなんか嫌いだ!」とマウロがぶつかってきた。彼はレゲトンというプエルトリコ生まれのダンスミュージックが好きで、よくそのビデオを見ていた。画面には、ビルが立ち並ぶ都会の風景と高級車、派手な格好で歌い踊る男女が映る。そのイメージは山で生活する彼らと正反対のものだ。彼の心には、若者が単純に抱く都会へのあこがれではない複雑な思いがあるように思えた。

マウロは民族の言葉を知らない。民族音楽も民話にも興味がない。伝統的な儀式にも「あんなのウソだね」と言う。それでも外の人間は自分たちの事を「インディヘナ」と呼ぶ。じゃあオレ達とお前達たちの違いは何?もしそう聞かれたら、私は答えが見つからない。

その後もマウロは、自分たちの事、故郷のことを少しずつ自分から話してくれた。

マウロの暮らしていた場所には警察も軍も常駐していない。そこは麻薬を収入源とするゲリラの影響力が強い地域だ。加熱する危険な場所という意味で、「ソナ・ロハ(赤い地域)」と呼ばれる。まさに政府が進める麻薬・ゲリラ撲滅作戦の最前線といえる。

集落にはゲリラや軍が出入りし、頻繁に起きる戦闘のなかで犠牲になる人々がいる。

彼が住んでいた地域はコカ栽培の盛んな地域だという。それは麻薬の原料としてのものだ。彼の家族もコーヒーとともにコカを栽培することで生計を立てている。家族でコカの葉の収穫し、精製所でペースト状にする。集落にはマフィアが住んでおり、麻薬取引を管理している様だ。マフィアを手伝い、靴の底にコカインペーストを忍ばせ町へと運んでいた父親の事、収入のために軍隊に入っていた彼の兄が、そこで麻薬を覚え刑務所に入れられていた事を、話しづらそうに私に教えた。また、麻薬で狂った軍の兵士が銃を乱射したこと、住民の物を盗んだゲリラ兵士を別のゲリラが処刑したこと、衝撃的な事を普段と変わらぬ口調で話す。タバコを吸う私に「タバコにはコカインが入ってるんだぞ、やめろよ!」と言い、「神様は全部見てるんだ。オレはタバコも酒も絶対にやらない」そう強く話す。

マウロの中には、先住民族、麻薬と暴力、家族の死、全てが一つの線でつながっている、そんな思いがあったのかもしれない。

私の中に一四歳の少年と話をしているという意識はもうなかった。一人の人間として発する言葉の一つ一つに込められた思いが何なのか、精一杯感じようとした。彼の過ごしてきた日常を知らない私には、そうすることでしか彼に答えられないと思った。

5.再訪

日本に帰国し、半年後に再びコロンビアに渡り村を訪ねると、マウロとアレクシスが元気に迎えてくれた。この頃には父親の状態も良くなり、月一回へと通院の間隔が伸びていた。そのため、病院のある都市からもう一人の娘、オルガが暮らす別の町のアパートに越していた。マウロたちも学校が長期休暇になるのをきっかけにその町に家族で暮らすようになる。山と違いとても暑いこの町で、六畳ほどの部屋に家族五人が暮らす様子は窮屈そうに思えたが、それよりも家族が一緒に暮らせる幸せを皆が噛みしめているようだった。後に、当時妊娠中だったオルガに息子が生まれ、家の中に明るさが増していく。

私はどうしても彼らの故郷に行きたかった。マウロがこれまでどんな思いで生きてきたのか、彼らが見てきた風景を見ることで共有できる思いがあるのではないか、その思いが日に日に強くなっていった。しかし、それにはカビルドの許可が必要だ。

先住民族社会ではカビルドと呼ばれる評議会がコミュニティーを取り仕切る。どの村でも、まずカビルドに来訪の理由を話し滞在の許可を得る。それは、自分たちの生活圏を守るための仕組みだろう。また、私の様な他所からの人間は、カビルドの許可を得ることで、紛争地域で軍・警察に対して、自分はゲリラではないと信用を得られる。先住民族社会を尊重するといわれるゲリラに対しても、カビルドと通じているということで危害を加えられる恐れが減る。しかし、外国人の出入りがない場所では、軍事組織の不信を招く危険が伴うため許可が出にくい。

それでも、「私たちが村に帰るときには一緒に行ってグアラーポ(サトウキビの地酒)を飲もう」と言ってくれた。

6.マウロの故郷を訪ねる 

三度目の訪問となった二〇〇九年八月、マウロたちは故郷の村に戻っていた。電話をすると、父親は足を固定していたボルトが抜かれ、山を歩けるまでに回復したと言う。オルガも子育てのため、一緒に村に帰っていた。皆が元の生活を取り戻していたことが、自分のことのように嬉しかったが、一方で今度いつ会えるのか分からないという寂しさがよぎった。

ある日、マウロたちが暮らしている集落から山一つ挟んだ所に暮らす知人を訪ねる機会があった。そこは住民の数が少なく、コカ栽培の規模も小さいため紛争が少ない。マウロの親戚も住んでおり、彼らが元気に暮らしている様子を伝え聞くことができた。深い谷に挟まれたその集落は、山の斜面にまだ青い実をつけたコーヒーの木がびっしりと並んでいる。無農薬で作られる立派なユカ芋や熟れたオレンジをたべながらのんびりと過ごしていると、マウロのお父さんが犬を連れてフラリとやってきた。「元気でやってるかー?」私が来ていることを聞いて、山道を一時間以上歩いて会いに来てくれたのだ。あまりの嬉しさにいつもより握手に力が入る。以前の杖をつきながら歩く姿はもうなく、日に焼け締まった顔つきから、本当にもう良くなったのだなと感じた。しばらくそこで話をしていると、「今から家に行ってみるか?」と言う。でも、いいのだろうか。カビルドは何と言っているのだろうか。彼は「別にいいよそんなこと。俺の作るユカ芋が見たいだろ?」あっけらかんとしたその言い方に思わず笑ってしまった。もちろん断るはずがない。「バモス!( さぁ行こう! )」と言って彼の後をついて行った。

前回彼らに会ってから一年半以上が経つ。頭の中をみんなの顔がよぎる。

山道を登りきったところから、彼らの暮らす集落が見えた。山々に囲まれたそこだけお皿のような平坦な場所がある。そこに五〇軒ほど家が立ち並んでいる。マウロたちの家はその中心から少し離れた、山の斜面にあると言う。残り半分の道のりは、やけに足取りが軽くなった。

コーヒー畑の中を通る小道の先に家が見える。家に着くと、マウロの母親とオルガ、三歳になり歩けるようになった彼女の息子に迎えられる。マウロとアレクシスは広場でサッカーをしていて家にはいない。自家製の甘いコーヒーとパンで少しゆっくりした後、広場へ行ってみる。夕方の沈みかける太陽の中で、友人たちと汗だくになってサッカーをする二人がいた。「オーラ!」と声をかけると、「こっちのチームに入ってくれよ!」といきなり私もボールを追いかけることになった。あっという間に汗だくになり、ヘロヘロになりながら日が沈むまで子供たちに混じって遊んだ。一七歳になったマウロは少し背が伸び、顔つきも大人っぽくなっていた。もうすぐ一五歳になるアレクシスは「ハラヘッタ!ハラヘッタ!」と、声変わりした低い声で以前教えた日本語を口にした。再び会えたことがとてもうれしかった。

家に戻って一緒に夕飯を食べながら話をする。再び家族と一緒に暮らせる事がどれだけ二人にとって幸せなことなのだろう。特別な話をしていたわけではないけれど、食卓に漂う穏やかな空気から、彼らが安心した生活を送っているように感じた。

夜が更けてくると、あたりが大分涼しくなる。食事を終え、温かいアグアパネラ(お湯に黒砂糖を溶かした飲み物)を飲みながらマウロ、オルガと三人で話しをしていた。その時、「ブーン」という低くくぐもった音が夜空に不気味に響き渡る。何だろうと思っていると、「フィエスタ(お祭り)が始まったんだよ。」と落ち着いた表情でマウロが言う。すると、遠くから腹にずしりと響く「ズーン」という音がした。低空で飛ぶ軍の飛行機と、そこから落とされた爆弾の音だった。爆弾が落ちた場所はここから大分遠いようだった。ここ数日、山に潜伏するゲリラに
対して軍の攻撃が続いているという。毎晩夜が更けてくると飛行機がやってきてゲリラに対して空爆が繰り返されている。

不気味な音が響く中、マウロもオルガも穏やかな表情のまま会話の続きを楽しんでいる。まるで何事も起きていないようだ。敢えてそうしているのか、本当に気にしていないのか分からない。ただ、二人の雰囲気が不思議なくらい私の心を落ち着かせていた。

ここでの生活は危険なはずだ。学校の屋根には白い旗が掲げられ、空に向けて学校の位置を知らせる「ZONA  ESCOLAR」の文字が大きく書かれている。村の入り口には住民による二四時間の検問が設けられ、軍事組織に対して自分たちの主権を主張していた。

短い滞在の中で私が印象に残っているのは、使い慣れた場所で家事をする母親、自分たちの畑で採れた作物を自慢する父親、住み慣れた家から学校へ向かう子供たち、それぞれが本来の居場所で生活を送っている姿だった。毎晩、繰り返し響く飛行機と爆弾の音が、その姿をより印象的に浮かび上がらせていた。マウロに「両親と暮らせて幸せかい?」と聞くと、間髪いれず「あたりまえだろ!」と笑顔をかえしてくる。

三日間の滞在で私はそこを離れた。別れの挨拶をしようとマウロを探すと、彼の姿がない。町へ出かける親戚を、バスが通る場所までバイクで送って行ったという。いつのまにバイクを運転できるようになったんだろう。一四歳だった少年の成長を感じて、嬉しくなった。

7.政府の対ゲリラ政策

二〇〇二年に国内の治安回復を掲げ大統領に就任したアルバロ・ウリベ氏は、アメリカの支援のもと、麻薬・ゲリラの撲滅を進めていった。二〇〇三年に対ゲリラ警察部隊が集落に入ってきたという話は、ウリベ政権発足後の事だ。コロンビアでは一九九一年の憲法改正により、先住民族共同体内で一定の自治が認められている。そこでは犯罪についても、共同体の慣習法に基づき彼ら自身で裁くことができる。(殺人等重大犯罪については例外。)治
安維持に関しても、カビルドを中心に行われている。共同体内での警察の役割は、あくまで対ゲリラということに限られる。ここで問題になることは、ゲリラとそれ以外の人々との境界だ。ウリベ政権になってから、農村に対する軍の攻撃が激しくなったという話を聞いた。また、先住民族の社会活動に対して軍・警察による妨害から活動する人の中に死者が出たときに、先住民族とゲリラとの関係を指摘する報道がなされる。先住民族とゲリラが繋がっていると政府が考えているようだ。

ゲリラと住民との関係は非常に微妙なものだ。ゲリラに対して物を売った事によって、シンパとして軍に殺害されるケースを何度となく聞いた。また、あるコカ栽培の盛ん地域出身の人の話では、初めゲリラの影響の強い場所だったが、後にコカの利権を巡ってパラミリタール(右派準軍組織)がゲリラと対立し、パラミリタールの支配地域となった。そして、ゲリラと関係が近かった人々が粛清されていったという。パラミリタールの動きを黙認する軍・警察の様子が指摘されている。

二〇一〇年八月七日、フアン・マヌエル・サントス新大統領が就任した。彼はウリベ前政権で国防大臣を務めゲリラ掃討に力を注いできた人物だ。ゲリラ根絶を表明していることからも、今後もゲリラの展開する地域での戦闘は続いて行くと思われる。

8.終わり

「インディヘナ」の社会で生まれ育ったマウロは、今もそこで毎日を送る。その生活は、政府が掲げる麻薬・ゲリラ撲滅作戦の最前線のなかだ。自分の力ではどうすることも出来ない環境でもみくちゃにされてきた。一四歳だった彼の眼は、自分の心の葛藤に外側に起こる問題の原因を見つけ出そうとしていたのだろうか。彼の話はいつも脈絡なく突然始まった。葛藤する心を不器用に表現していたのかもしれない。

「麻薬・ゲリラ・紛争」コロンビアと聞いて多くの人が持つイメージだと思う。
しかし、そのイメージの内側には、人々の人生がある。そんな当たり前のことを、マウロや彼の家族、友人たちと関わる中で実感した。

次に会う時、マウロはもっと大人近づいているだろう。これから彼はどのような人生を歩んでいくのか。成長した彼とどのような話ができるのか、とても楽しみだ。

暴力が彼の人生を終わらせることは、絶対にあってほしくない。